2008年04月01日

自転車の思い出再考(日本の自転車の歴史)


自転車の思い出再考(日本の自転車の歴史)

 
1960年代半ばから70年代にかけて、庶民が最も購入したがる商品としての「三大件(三種の神器)」には、腕時計、ミシンと並んで自転車が入っていた

宮田自転車の宮田英助も元はこの鉄砲鍛冶職人であった。この国友の自転車は現在東京の江戸・東京博物館に展示されている。
http://www.eva.hi-ho.ne.jp/ordinary/JP/ordinary/index2.html

 
「国友鉄砲記」によると、天文13年(1544)2月将軍足利義晴が、管領(かんれい)細川晴元を通して国友村の鍛冶・善兵衛らに鉄砲製作を命じ、6ヶ月後に6匁(もんめ)玉筒2挺(ちょう)を完成させたといい、それを国友鉄砲鍛冶の始まりとしています。この「国友鉄砲記」は、国友における鉄砲の製作開始にまつわる話として引用されることが多いようです。

明治時代の自転車店は、輸入自転車の修理が主な仕事であり、フレームパイプが曲がったり折れた場合、パイプを取り替えるのに火床(木炭炉)か必要であった。フイゴは炉に風を送る道具で、鍛冶屋は毎年旧歴の11月8日に鞴祭を行い、鞴はとても大切にされた
http://sca.cool.ne.jp/bunka/siryo41-50.htm

 
ひじやうなる白痴の僕は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる   前川佐美雄
 
日本で明治になり様々なの技術が入ってきた。汽車もそうだが自転車もそうだったのだ。鍛冶屋がだから最初に自転車を作り宮田自転車となった。フイゴまで使ってフレ−ムを作っていたのだから驚きである。明治維新がなぜ日本で成功したのかというと技術的な面でも日本は江戸時代にすでにすぐれたものがあったのだ。そもそも何もないのに明治維新のような大事業ができるはずがない、教育でも寺子屋が各地にあり庶民が読み書きできたし英学の前に蘭学があり移行できた。技術的にも鍛冶屋の技術も役立っていたのだ。江戸時代と明治時代は連続性がないようでも連続性があったのである。明治維新を成功させる土壌がすでにあった。
自転車は貴重なもので一生に一台大切に使うものだから丁寧に磨き手入れしておくのが日課だった。荷台がついたがっしりとしたものである。物を運ぶものとして使われていた。自転車で商いするものもいたしキャンデ−を売るのも自転車だったり自転車の活用範囲は広かったのだ。
 
私の生まれたところは、かつての浅草区象潟町八番地。このあたりの江戸の古地図を見ると、六郷屋敷となっている。六郷様の領地が秋田の象潟だったことから、象潟町と名付けられたという・・・道路は広く、自動車なんて通らず、たまに通るのは馬力だけ。自転車屋で子供の自転車を一日五銭で貸してくれるので、私たちは大威張りで乗り回したものだ。

空が明るくなってくると、納豆売りが来る。
「なっとなっとオ、なっとなっとオオオ、みそまめ」
豆腐屋も、真鍮のラッパを吹いて廻って来る。
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/taitou-imamukasi/kisakata.html

 

自転車はみんなもっていないから貸し自転車商売が生まれる。貸本屋も昔はあった。今はブックオフに変わった。金のない時代ものの少ない時代は借りることが多くなる。
真鍮のラッパを吹いて・・・この真鍮の思い出は真鍮は子供のとき貴重でありくず鉄やで売れたのである。本当に金をもらっていたから真鍮を探していたのだ。朝鮮戦争のあとも日本では貴金属類が不足してくず鉄が金になっていたのである。

 
自転車は、町の自転車屋が注文すると、部品が鉄道の貨物として送られてきて、それを自転車屋の親父が組み立てて、末端の消費者に販売するのが基本だ。部品代はもちろん自転車の「定価」に比べれば安く、どのぐらいの割合だったかは(昔聞いたときは知っていたが忘れた)多分2〜3割ぐらいか? 町の自転車屋は、小型トラックが普及する以前は、駅の傍にあることが多かった。昭和30年代、40年代の半ば頃。昭和40年頃の自転車は、高かった。大人用が3〜5万ぐらいしただろうか。別に高級品というわけではなくて、鉄製で、(良い製品は亜鉛めっきされたもので、)重たかった。値段の高いものは、ステンレス製品が多くつかわれていた
 
この町の駅前にも自転車屋があり二代つづいているから古いのかもしれない、今駅前に自転車屋はあまりみかけない、駅には必ず引き込み線があり荷物を下ろしのせたりしていた。その時縄が使われていたから縄屋というのがあった。近くに縄屋とあるのはそのためである。倉庫だけが当時のままに残っている。鉄道と自転車は密接に結びついていたのである。
 

縄屋と引き込み線
http://musubu.sblo.jp/article/3590684.html


私の自転車の思い出は店屋をやっていたとき卵買いに行かされたことだった。ダンポ−ル箱にぬかをつめて壊れないように卵を運ぶのである。しかし必ず卵は一つくらいは壊れるのである。道は舗装されていないからガタガタ道だったからである。小池から寺内にきて町に来る真野川に橋がかかっていたがこれは木の橋で舗装もされていず揺れたりするから危ない橋だった。橋は昔から流されたり危ないものだった。今はそうした木の橋がないからあんな橋があったことは信じられない、橋を作る技術は木だったらどうしても頑丈にはなりえなかったのである。
 
自転車に乗りて娘のさがしこし卵九つ真玉のごとし 吉野秀雄

その当時卵はまだ大量生産されていない、農家の庭で放し飼いの鶏であり商品化されていない、需要がなければ商品化されない、高度成長に入り卵も売れるものとして商品化されてきたのである。娘が探してくるというのは農家を探してゆずり受けていたのだ。これはさらに明治頃になるから卵はその当時も商品化され店にあったわけでなかったのである。真玉のごとし・・とあるごとく非常に貴重であり病人が食べていたが普通は食べることはまれだったのだ。大鵬、巨人、玉子焼き・・・の意味も玉子焼きも食べられなかった時代があった。それは戦後十数年のことであり戦前のことではなかったのである。

 

私が自転車に思い入れが強くなったのは実際は自転車旅行するようになってからである。それは四〇代以降なのである。その前は汽車旅行だから汽車や鉄道への思い入れが強い、今でもそれはつづいている。郷土史というときその人それぞれが生きた人生が郷土史であるから範囲が広いのである。それぞれの人生を聞き取り郷土史を編纂しているのもそのためである。郷土史に関してはインタ−ネットの情報は豊富である。あと病気に関しても情報は多岐にわたる。この点でインタ−ネットは効用があった。やはり情報が集積されないと深く知ることはできないのである。
 
 

posted by 老鶯 at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 相馬郷土史関連
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