
南相馬市鹿島区台田中の墓を調べる
1347年−霊山城は貞和3年8月、北朝軍重囲のもと炎上陥落した
1351年(正平六年)−桑折五郎元家は霊山から北畑顕家の姫をともない真野の里におちのびる。
桑折五郎元家は伊達郡桑折よりきて江垂(いたり)に館をもちあとに田中城を築き真野五郎と称した。その三男がいたが嫡子がいないために岩松義政が足利義満に千倉庄を与えられた。その後岩松氏四天王の家来により殺害される。
小高城に入った伊達稙宗は、その翌年のころ伊具郡丸森城に移ったが、途中千倉庄(南相馬市)石宮を通るとき、かつて石松義政が石松四天王らに、主家に叛くことのないように誓詞を石に刻ませたという故事にならって、その起請石に「伊達七世弓を相馬に引くべからず」と墨書きしたという(『東奥中村記』・『奥相茶話記』)。
相馬顕胤の掛田出陣中に、黒木弾正正房・中村大膳義房兄弟が叛き、北郷田中城を攻めようとしたのを討って宇多郡の実権を掌握した。
相馬讃岐守胤弘が真野郷を改め北郷とした。桑折五郎の子孫を田中城主とした
天正六年(1578)−盛胤の嫡子義胤が家督を継いだ。盛胤は隠居し子息の相馬郷胤が城主であった田中城に入り、のち中村城西館に移り中村城主で子息の相馬隆胤の後見役となった。
桑折久家(田中城代)
桑折清家(田中城代)
相馬義胤(1548−1635)−北郷田中城主田中忠次郎郷胤−文禄二年(1601)

南相馬市鹿島区の地名の地層として最下層に形成されたのが浮田国造の浮田であり次に古代の真野の草原である。そのあとが鎌倉から移住した岩松氏関係の地名でありこの辺から明確に史書に記されているからわかりやすい。千倉もそうだし大倉も鎌倉の大倉御所から名づけられたかもしれない、三春にも大倉があり全国にある大倉がすべてではないにしろ鎌倉時代の大倉郷から移動しているかもしれない、地名でややこしいのは人名と元からあった地名が混同することである。黒木とあれば黒木という地名がもともとあり黒木の地名をとって黒木の姓をあ名乗ったのである。相馬は相馬氏の移住によっているから姓がそのまま地名と化している。桑折は伊達の桑折に由来している。桑折という地名から桑折の姓が起こり真野に移った。桑折はここでは地名化していない、台田中という地名があり田中城がありそこで桑折氏が田中城主となった。田中という地名はその前にあったのである。相馬盛胤は隠居し子息の相馬郷胤が城主であった田中城に入りとあるとき北郷田中城主田中忠次郎郷胤はもともと相馬氏だったが田中の地名をとり田中姓をなのった。相馬はもともと中村という地名が先にあり中村の姓を名のる武家が出たのである。
台田中にある墓で一番古いのは天・・・と書いてあるが天正から天和天明とあるからわからない、ここは古いから古いのかもしれないが謎である。からこれは天和とすると(1681−1684)である。他に長と書いてあるものがありこれは慶長なのだろうか?(1596−1615)?もしそうならその前の天正にもなるが慶長六 田中院殿陽山吉公大居士とあるから慶長のあとの天和になるのだろうか謎である。これは僧侶の墓であり北郷田中城主田中忠次郎郷胤が死んだあとの墓だろう。北郷田中城主田中忠次郎郷胤の墓はここにはないがここは確かに田中城に由来しているから古い場所である。桑折氏と与力紺野善徳が桑折の跡を継いだとかあり小池に善徳橋が水無川にありここに由来すると考えられる。
南屋形に「慶長六 田中院殿陽山吉公大居士」の墓があり陽山は今の鹿島区の町内にある陽山寺である。陽山寺とはここに由来して名づけられている。先にこの戒名がありそのあとにこの名に因んで陽山寺ができた。つまり北郷田中城主田中忠次郎郷胤を祀る寺として寺が始まったのである。寺は武家の菩提寺であり僧より先に武家があり武家を弔うものとして寺があった。寺は武家の役所も防衛のための城の一部としても配置されていたし武家と一体化していた。先に武家をたてまつるということは宗教ではありえないがここではそうなっていたのである。
平安時代→五輪塔(名前は刻まず)
鎌倉時代→宝篋印塔(名前は刻まず)
南北朝期→宝篋印塔(法名を刻む)
室町〜戦国期→五輪塔か宝篋印塔(名前あったり、なかったり)
江戸初期→箱形、河原の丸い石(法名のみ刻む。個人単位)
江戸中期→箱形、河原の丸い石(法名・歿年月日を刻む。個人単位・夫婦単位)
江戸後期→屋根付き位牌形、箱形(法名・歿年月日・俗名を刻む。水鉢に家紋を入れる)
江戸末期〜明治初期→位牌形、角柱形(現在の形) (法名・歿年月日・俗名を刻む)
墓で一番古いのは岩松氏の五輪塔であり次に宝篋印塔である。そのあとに天の字の墓が古いのか、次に東光明覚は安政だからかなりあとになる。埼玉に明覚という地名もあり天台宗の一派かもしれない、五十音を最初に提案したのは天台宗の明覚でありとするとこれらは墓とも限らない、墓の前にインドでも塔を拝むことがあり塔を拝むことが信仰になっていたからだ。墓ではなく信仰の対象としてあったかもしれない、僧侶の名前が刻まれていないのもある。東光院や明覚寺というのは各地にある。江戸時代に庶民はもてなかった。墓をもつことを禁止されていた。墓をもてたのは武家と僧侶でありその墓も菩提寺にある。ここにあったのはだから田中城主関係と僧侶だけであった。そのあとにその子孫や越中から移住した人がここに墓を建てた。中には名前だけのがありこれは姓がないから庶民のものである。庶民も一部墓を建てることができるようになったのだが家の墓ではない、個人の墓であり夫婦の墓が先だった。今のような家中心の先祖代々の墓はなかった。お盆でも魂迎えとかは墓所で行われていたわけではない、家の前で行われていた。なぜなら庶民は墓をもっていないのが普通だったからだ。
ここの墓所の特徴は僧侶の墓が多いことである。代々の僧侶の墓がここにありそれらが一番古い、次に武家の墓がある。墓地はたいがい明治以降に増えたものでありそれまでは庶民の墓地すらなかったのである。星とか高野とか桑折もあるから桑折は田中城を死守した子孫だからここに埋まっているのがふさわしいとなる。ただ明治時代に日本は伝統と一度断絶している。姓を名のることも自由になった。だからすべてが武家の継続している姓とはならない、明治以降に土地の武家の姓をなのった人もかなりいたからである。ただこの台田中の墓所は町中の墓所より古い、鹿島村の中心は今の町の方にあるのではなく田中城中心にあった。館や城ある所昔の中心地だからである。館(屋形)が先にあり次に城となったのだから田中城は城だから館より大きなものだった。堀もある城だった。中世は江垂の桑折氏の館と岩松氏の館(屋形)と田中城があった。田中城は伊達氏との興亡で最後まで残り相馬氏が受け継いだから古い場所である。
天正(1586−1592)
慶長(1596−1615)
天和(1681−1684)
天明(1781−1789)
天保(1831−1844)
安政(1855−1860)
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