2008年05月14日

歩けぬ悲しさ(介護の短歌)


老鴬や我がなぐさめて介護かな


雨ぬれて色合い深く藤垂れて朝来鳴きぬ鳥の音ひびく

歩けぬと外をながめて悲しきや車椅子押す病院の中を

歩けぬと今日も嘆きつ横たえて死ぬるがよしと言うが悲しき

向かいなるしゃべれざる女悲しかも今日も声かけ我が去りにけり
 
認知症でも七八割が訳のわからないことを言っても一二割りまともなことを言うのである。いつも最後の方にまともなことを言うようである。はって歩けたらな・・・というのは歩けない自分を自覚しているかなりまともな自己認識であった。なぜなら自分がオムツしている胃から栄養をとっていることが自覚できないからだ。トレイに行くからトイレに連れて行けと必ず言っているからだ。これは何度言っても自覚できない、ではなぜ自分が歩けないことをこれだけ自覚して悲しんでいるのかわからないとなる。歩けなくなることこれは人間にとって相当なショックである。自殺したいとか死にたいとかいうのもわかる他の人もそうなったからである。歩けなくなることが一番死にたいとなる要因になる。やはり人間歩けなくなったら生きる気力がなくなることなのだ。
 
ここの病室は今はかなり陰気である。隣の女性は鼻から栄養をとっていてしゃべらない、植物人間ではないがしゃべらない、向かいの人も泣くことと笑うことしかない、この人はなんとかしゃべろうとしているのだがしゃべれないのである。だから笑っている時はいいのだが泣いている時は看護婦も心配するのである。一番しゃべる女性は退院したのでここにいてもしゃべる人がいないから淋しいとなる。、歩けない、しゃべれない、食べることもできない、ここの病室はみんな胃ろうである。こうして生きていることも嫌になる、死んだ方がいいともなるのは自然である。ただ認知症の人は元気であれば嫌がられる、でも体が悪いと同情されるのだ、はっても歩ければな・・・と言った時あわれだなとなる・・・でも認知症の時は同情されないから損なのである。誰でも体が悪いことには同情するが認知症は同情されない、自分も何度も同じことを詰問されて嫌だった。今言っているのはなげているのはほとんど体が悪いこと、体が痛いとか歩けないとかだから同情する。だから認知症はつくづく損な病気なのである。でも話が通じないわけではない、一二割でもまともなことを言う時がありああ、この人はまともだなとその部分では思ってまた別れてくるのである。
 
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