病院から南相馬市原町区の街をながめ昔を思う
(原町市は一早く近代化された街だった)
今日も見ゆ丸三製糸の煙かな病院を出れぬ患者とともに
大正後半から昭和初期の話だが、うちの曾祖母は小卒後、地元の県立工業学校で自動織機を学びながら働いてて、当時としては貴重な技術だったため、小学校の校長と同じ給料を貰ってたとさ。数ヵ月に一度は実家に田畑を買ってやったと言ってた。
歳にして13〜だから、今の時代じゃ考えられんな。
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これは今でIT企業で働くような人である。パソコンの技術者とかである。プログラマ−とかもそうである。これは中学生とか高校生でもプログラムできてゲ−ムを作っている人がいるから最先端の技術は若い人が習得するのが早くそれがこれだけの金をかせぐことにもなっていた。常に最先端の技術は最初金になるのだ。
1926年 - 豊田佐吉発明の「自動織機」を製造するため、愛知県碧海郡刈谷町(現・刈谷市)に株式会社豊田自動織機製作所(現・株式会社豊田自動織機)を設立。
トヨタ自動車が自動機織を作ることから始まっていた。宮田自転車のはじまりは鉄砲鍛冶だった。技術も関係ないようでも受け継がれるものがある。ともかく戦前の産業はこの機織りだったのだ。その材料は養蚕であり桑であるからいたるところで養蚕が行われていた。今でも古い家では養蚕をした二階建ての家が残っている。白川郷の合掌作りも二階は養蚕のために作られていた。大正生まれの母の話を聞くと家では手作業で機織りまでしていた。この女性は字を読めないし書くこともできなかった明治生まれの人である。郷土史というと親や祖父母から聞いた話自体が郷土史なのである。郷土史は非常にすべての人にとって身近なものなのである。個々の家の歴史が郷土史だから誰でも郷土史について語れることになる。今家族が南相馬市の前の原町市の病院に入っているのでそこで原町の街をながめていると原町が身近に感じられた。そもそも原町市は私の母のでた所だから身近な街だった。墓もこの街のなかにある。糸取りで機織りで娘の時10年くらい働いたのだ。その話は前にも書いた。大正生まれ、戦前の人はたいがい機織りにかかわっていた。現実母方の家は機織りの会社をはじめて倒産したことが悲劇のはじまりだった。一家離散してしまったのだ。成功する人もいたが失敗する人もいたのだ。
原町という街は近代化を象徴した街だった。それを一番示していたのが東洋一という空をつくような無線塔だった。これは相当な威容だったのだ。原町はまた機関区であり原ノ町駅から木材や鉱物資源が貨物列車で東京方面に運ばれた。森林鉄道がかなりあった。これは全国にあった。木材を積み出すことが多かった。丸三製糸会社というのもかなり古い、ここで私の家の親戚の人が働いていたからここも原町市の重要な雇用の場だった。何か不思議なのは病院からながめる景色である。丸三製糸の煙が街中にはきだしているがこれは昔と変わらない、ただ昔は地元の木材を利用していた。今は外材になっている。産業というとやはり資源が地元から供給されるときより活気あるものとなる。山村でも炭焼きで暮らしていけた。その時は山村も活気があり人間も自立していた。中央への依存体質がなかった。自分たちは炭焼きで食っていけるという自信があったのだ。要するに戦前は山村が資源の供給場所だからそうなっていた。だから原町は近代化を象徴した市であり原町という名もそのイメ−ジのなかにあった。戦争中は飛行場もありその格納庫跡が残っている。相馬というと相馬藩であり相馬野馬追いになるが原町はむしろ明治以降いち早く近代化された街としてあった。街にも個性がありそれは歴史的に作られている。明治以降の近代化もすでに歴史となったのである。
富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて 大和田建樹
この歌の意味は都会には金持ちがいても俺たちは田舎で山の中でも炭焼きをして暮らしていけるから満足だ。そんな都会の贅沢とはかかわらなくても暮らしていける。そういう自負の歌だったのだ。それは炭焼きという自活の道があったから都会から税金を分けてもらうような依存体質がなかった。その炭焼きの煙が絶えてしまった結果として山村の過疎化荒廃化になったのである。
郷土史の基本は家にあるから祖父母の話を聞くことから興味を持つ、介護にしても昔の介護はどうだったかとなると悲惨だった。脳出血で倒れた祖母は藁に寝せられ藁で便をしていたというから信じられない。それで四年間も生きていたとか悲惨である。なぜ藁なのかというと紙というのは実際もともと相当貴重なものだった。便に使うにも新聞紙を使ったりと今のような柔らかい紙を使っていない、日本ではもともと江戸時代から紙を使っていた。ヨ-ロッパではその時紙は余り使われていない、それで伊達政宗に派遣された支倉常長の一行が鼻をかむのに紙を捨てていたらその紙が貴重だと地元の人が拾っていたというから紙はヨ-ロッパでも貴重なものだった。鼻をかむのち紙を使うこと自体相当な贅沢なことでありそこで日本は豊かな国とさえ思われた。こういう話を聞くとオムツの紙をこれだけ使っていることなんと贅沢なのだろうと思ってしまう。これは膨大な紙を全国で使っているのだ。高齢化社会もいかに資源の消費するかという問題にもなる。看護にも介護にもいろいろ歴史がある。点滴でも昔は切れたらいちいち看護婦を呼ばねばならなかったから一日見ている必要があった。今は自動化されているからそんな苦労もないのである。人間はやはりなんでも歴史をふりかえり考える習慣をもつべきなのである。歴史というとむずかしく考えるが最も身近にあるのが歴史なのだ。家の歴史がそもそも歴史のはじまりだからである。天皇家の歴史も一つの家の歴史であり日本の歴史になっていることでもわかる。
郷土史はインタ-ネットで調べると無数にある。全国で語りが生まれた、これはいちいち直接話を聞く手間が省ける。この全国の郷土史を編集すれば新たなインタ-ネット郷土学、民俗学など生まれる。郷土史の分野は全国に散らばり出版されても全国にでまわらないし調べようがないものだった。それがインタ-ネットで結ばれたことは新しい郷土史学が形成される。
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