2008年05月21日

宮城県-丸森の金山城跡へ

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宮城県-丸森の金山城跡へ 


残雪の蔵王を仰ぎ農作業


新緑や蔵王の見える地宏し

金山城我が上りゆく落椿

夏草に切り株埋もれ城の跡

遠き日の屋敷の跡やシャガの花

草分けて城跡の道シャガの花

草深し日影ににあうシャガの花

老鶯や道のり遠し相馬まで

山越えて他国の空や夏雲雀

夏山のかなたは相馬金山城

新地駅海風涼し夕べかな

丸森を我がさりゆくや桜咲き夕べあわれや相馬近しも

金山城伊達と相馬の攻防の城や古木の青葉に風鳴る

夏の日に蔵王を望み相馬へと我が帰るかな時鳥鳴く

金山城その跡淋し何語る夏草埋もれシャガの咲くかな

雄々し蔵王を望み相馬へ我が帰るかな夏の夕暮

桐の花一輪道に散りひそか新地にゆく人まれに事なし

丸森は相馬から近いと言っても相馬市からは結構遠い、台風の風がまだ吹いていたので電車で岩沼から東北線で槻木(つきのき)まで行き乗り換えて阿武隈急行で丸森まで行った。こういう行き方は実際は昔はありえないので昔を偲ぶことができなくなる。電車は前にも述べたけど瀬戸内海の福山城は駅のすぐそばにある。というより福山城が駅のようになっている。電車でのりつけるようになっているが実際は瀬戸内海から船で行った人も多い、船の交通があり船が便利だったからだ。電車は歴史的過程を無視するから昔を偲べなくなる。相馬の城から峠を越えて丸森の金山城と行ったときそれは歴史の道なのだ。一時は金山城は相馬藩に属してあとで伊達の城となり伊達政宗初陣の地ともあり相馬と境をなす要衝の地となった。相馬の本城があるとすると出城なのである。だから密接な関係があったのだ。相馬からしょっちゅう行き来してしていた城だったのだ。距離的にも相馬から近く行き来しやすい場所だった。それでも昔は歩きでも馬でも遠いとなる。自転車でも遠いという記憶があった。それで電車にしたのだが実際は新地駅に回ると意外と近かった。折り畳み自転車で新地から帰ってきた。
 
金山城はこの年まで何回も丸森に行って見なかったというのは失敗だった。遠くの方ばかり旅していて注目していなかった。ここの城も石垣が残っているから何もないよりはいい。そして錯覚していたのがインタ-ネットの写真で見た石垣は立派に見えた、こんな立派な石垣残っているのかと不思議に思った。なぜなら小さい城だからである。実際に見たらこの石垣はかなり小さく粗末な石組みであった。写真と実際で見たものとは違っている。写真の方が良く見える、きれいに見えたり大きく見えたり立派に見えたりするのだ。これは人物でもそうだろう。写真は錯覚を作り出す場合がある。テレビもメデアも実物を見ているわけではないから錯覚を作り出しているのだ。どんなにテレビや写真の映像を見ても実物とは違うのである。でも錯覚してしまうのである。これは石垣が残っていても相当貧弱な粗末なものでありこの城にかえってふさわしいものだった。立派な石垣を作りえようがないからだ。それでも石垣が残っているだけで他とは違っている。ほとんどこの辺の小さな城は残っていないからだ。
 
どんな町にも個性がある。新地には何もない、どういうわけか前にもここで桐の花の咲く時期に行き桐の花のことを書いた。不思議に今回も桐の花が一輪ひっそりと道に落ちていた。ただそれだけしかない、新地駅の特徴は海がすぐ近くであり海からの風が吹いてくる。常磐線が浜通りを通るにしても海の近いのは富岡と新地駅くらいである。新地の特徴は駅をおりるとすぐに海にでられることなのだ。
 
幽邃やシャガに古木の日影かな

夏の海新地から見える島の影

桐の花日影にひそか咲きて散る新地の町にしばしたちよる
 
前に書いた新地の句と歌である。
 

新地から牡鹿半島が見えた
http://musubu.sblo.jp/article/15012668.html.

 
今回は金山城から遠望した写真をデジカメのバッテリ-がきれてとれなかった。次は新地駅からゆくと丸森はすぐに峠を越えるだけだから近いのでまた行ってみよう。丸森はいろいろとまだ魅力ある場所である。今回は疲れていろいろ書けなかったが次にまた回想して書いてみよう。
 
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