
飯館地名歌集
山木屋に分かる道三つ芽吹きかな
飯館の名を昔の人聞けばいぶかし知らじいづこにありと
落葉踏み卒塔婆峠ゆく人の今日一人あり猿の知るらむ
我が越ゆる卒塔婆峠遠きかな玉野への道秋の日暮れむ
臼石に二枚橋や昔より人の暮らしや飯館の村
久しくも小宮には行かじ別れ道今日風荒し春の午後かな
飯館に辛夷の花の咲きにつつ耕す人あり鶯鳴きぬ
飯樋(いいとい)墓にし眠る人その名をよみつ春日暮れにき
飯樋の一軒の店我がよりぬ坂こえ昔の茶屋の跡かな
遠くより来る石工の物語春の日あわれわれはよりにき
古き碑の比曽にあわれや柳かな人のまれにし遠き道かな
山木屋に道は分かれて春の日や安達太良望まむ我はゆくかな
山木屋に三春への道小出谷へも通ぜし道や春の風吹く
飯館は飯樋村と大館村があり合成地名だった。この合成地名は地名をゆがめてしまった。昔の人がたずねた時、飯館村はありえないのだ。ここに歴史の継続がたたれてしまったのだ。臼石とか二枚橋は元からありそれなりの謂われがある。佐須は焼き畑のことだから現実に焼き畑が行われる地にふさわしい奥地なのだ。そこには家が一軒あってその前の畑に乳神の碑があった。あんな奥地では昔は牛乳もないのだから乳が出ないことは深刻だから碑をたてて祈っていたのだ。飯樋に出ると草野より広々としているから気持ちがいい、飯樋には塩の道の陣屋が置かれていたし役人が60人もいたとかなると塩の道として行き来がかなりあり昔の交通の要所でありにぎわっていたのだ。
山中郷(がう)草野村を以て開業に当てん。
夫(そ)れ草野村なるものは山中高山の間にあり、夏は冷気にして冬は最も寒し。
故に三年の中一年は五穀実らず。
是を以て貧民多く、戸数減少田圃(でんぼ)荒蕪(くわうぶ)し極めて難村なり。
故に此の邑(むら)を以て領中再復の始(はじめ)となすべしと。
即ち此の議を以て東都(とうと)に達し、草野村に開業せん事を先生に請(こ)ふ。
報徳記巻の7【2】先生相馬藩の分度を確立す
http://plaza.rakutenco.jp/jifuku/diary/20071219/
相馬藩の陣屋の記録によれば、江戸時代の飯舘村は人口2888人、それに対して馬は1400頭、実に人間の半数に及ぶ馬がいたことになる。
飯館村のもう一つの特徴が1400頭の馬が飼われていた。これは今は牛が飼われているが実に多いのに驚く、野馬追いの馬もここで飼われて供給されたのかもしれない、これだけの馬は売るために飼われていたのである。馬や炭や薪も供給していた。相馬藩の山中郷としてそれなりに供給するものがあった。 ただ高原地帯で寒いということは生活するには厳しい所であり宝暦の飢饉の供養の碑があることでもわかる。冷害にあいやすいことはまちがいないからだ。
山木屋は塩の道の別れ道であり三春にも通じているから交通の要所だった。今はさほど重要でない場所でも昔は重要だった。時代が変わり忘れられてしまうのである。小出谷は小出屋であり出作り小屋のことだった。
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