(病院で発見された南相馬市原町の魅力-詩と解説)
HARAMACHIの灯
原町のイメ−ジは横文字−HARAMACHI
東洋一の巨大な無線塔があった
原町機関区、原町森林鉄道、戦争中の飛行場跡 雲雀が原
丸三製糸の煙、長い駅前通り、一早く近代化された街
時代が変わり、六号線−南相馬市−道の駅
大きな市立病院の屋上から太平洋
しきり窓を飛ぶつばめに見上げれば鴎
HARAMACHIににあう黄色の薔薇
6号線−レストラン多し、赤いつつじ
病院に介護すれば街の灯が映える
前方後方墳 その四角が斬新なり
日々通いその地を踏めば土地の人
ここに眠ればHARAMACHIの街の灯の中に眠る
田んぼに蛙鳴き街の灯は近代の都市、発展途上の都市
風を切り六号線を走り去るもの、外国人のサイクリスト
今HARAMACHIで一番立派な建物は市立病院
広々と緑の田野につつまれた街
太平洋の沖ゆく船、梅雨の日に街の灯がしみる
一山越えてHARAMACHIは異境にもあれ
一山越えて行き来し国二つなり
ここに死すればHARAMACHIの人
ここに我がはらからの眠る墓
そこに我が思いはありて供養しぬ
誠にその奥津城は徒にはあらじ
死せるものの魂と合うべき所

原町のイメ−ジは外からは雲雀が原の野馬追の神旗争奪戦である。しかし地元からみると原町は無線塔に象徴された一早く近代化された街のイメ−ジなのだ。原町機関区もその象徴であり原町は相馬市より人工が近代化で増大した。相馬は昔ながらの野馬追いの城下町である。雰囲気がまるで違っていた。原町には別に相馬藩の名残となるものが残っていないのだ。原町はだからHARAMACHIのイメ−ジなのである。他からみると相馬は原町でも南相馬となっても野馬追いの相馬なのである。内部では地元からみると違っている。このずれはどこにでもある。一地域でも街の歴史は違って個性がある。日本は一つの山を越えると違った世界になっている。坂は境であり峠が多く峠を越えると別世界に出る感じになるのだ。これが大陸のようなどこまでも平坦な地理だったらこうはならない、地形的な変化がないから街の個性はむしろ人間が作り出した文化にある。キリスト教圏からイスラム圏に入ると異質だとか地形的なものより人間が作り出した文化の相違が地域を分ける。
私が原町の病院通いして不思議な感覚を味わったことはない、それは病院が一番大きな建物であり太平洋から原町を一望できたからである。その視点と病人を看護しているという体験が今までにない感覚をもたらした。そして原町は自分にとって相当因縁深い土地であったことをしらしめられた。というのは自分の母方の墓が街中にあるからだ。そして人間はつくづく意外とどこに死ぬかということは大事である。骨の埋める場所が大事である。私の兄は原町に住み集団就職で東京から静岡の方まで行ったが交通事故で死んだ。その兄はいろいろな複雑な悲惨な経過をたどり原町の実家の墓に眠っているのだ。実際は子供は静岡で育ち今も離れているとするとここに埋葬されるはずではなかった。本人もそう思っていたのである。今は離れて暮らす人が多いから東京にでて行ったものは子供が東京にいるのだから東京に墓参りすやすいから東京の人となって眠ることが多い、でも人間は生れた所と死ぬ場所は一番大事である。
ともかくそこが深い因縁の場所になるからだ。最後に末期に見る光景はどんな平凡な所でも違ったものになる。ここが最後の見納めだとなると平凡な景色でもこの世で見る最後となるものだからどんな場所でも特別なものとなる。だから外国の戦地で死んだ人は悲惨である。もし遺骨でももって故郷の墓に眠れば供養されるかもしれないがそうされないものが多いからその魂は幽魂となり荒魂となってさまよっているかもしれないだ。直観的に埋葬され魂が眠る場所があることに気づいた。そこはやはり生者と死者とあう場所でもあった。それだ桜井古墳の大いなる主は誰なのだろうとつくづく思った。原町の最初の首長は桜井古墳の主だったからである。古墳は古代の墓でありその墓の主に思いはせることは自分の近親の因縁深い祖先に思いをはせることに通じていたのである。桜井古墳は前方後方墳でりこれの方が斬新であり前方後円墳より原町という場にあっている
郷土史というと過去だけではない常に今と関係して過去があるのだ。今の生活からでは桜井古墳がどんな関係があるのかとなるとやはり現実的にあった。原町の最初の大いなる祖が眠る場所だった。それを近くの六号線を通り病院で自覚したというのは想像もできないことだった。
今は常に新たであり想像しえないことを体験するのが人間である。そして過去も新たにその今を通じて変容してくる。歴史は新たに再認識される。それを詩で現した。こんな詩を書く自分がこの年まで想像されなかった。人間は死ぬまで未来はわからない、新たな体験を強いられ新たな角度から世界を見ることになる。異境というと遠い外国のことだと思っているが一番身近な所が異境だったということも意外なことだった。今や国際化で外国が故郷になっている人も多い、そして最も身近な生まれ育った所の魅力を感じない人が多いのである。最後に発見されるのが自分の生まれ育った所だというのも人間の皮肉だったのである。
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突然で失礼かと思いましたが文中で、丸三製糸とありますが 製紙の間違いです。
製糸工場は ご存じかとは思いますが昔は原町紡績と言い その後青木染工と名前を変え その後糸へんの衰退により無くなってしまい現在の跡地は分譲団地に変わってしまいました。
・原町紡績と言い その後青木染工と名前を
・変え その後糸へんの衰退により無くなっ
・しまい現在のの跡地は分譲団地に変わってし
・まいました。
丸三製紙には叔父が勤め原町紡績には大正生まれの母が10年勤めていましたから原町は縁が深い場所です。原町紡績はハラボウとう言っていたからここもかなり大きな会社だった。
原町は明治以降、原町駅が常磐線の機関区になったことで発展した。丸三製紙は街中にあり煙をはいていることもその象徴だしその前には無線塔が象徴でしたから・・・
製糸が先で製紙はあとでした。前にも書いたけど相馬市は城下町であり原町市が先に発展した歴史があった。
紡ぐだけの紡績と織る工程までの紡織とはまったく違う。原町紡織工場には織布工場があったからです。
原ノ町駅と原ノ町機関区は別な組織であり、明治31年4月3日に同時に設置されました。駅が機関区になったということはありません。人事も全く別系統です。
「原町市史」をごらんください。
ハラボウには私の母が十年間働いていた
父方と母方のル-ツを探ることが
歴史の原点でしょう
南相馬市立病院には一か月いましたから
長かったです
それで大原の人と同室でいろいろ話しを聞きました。
私立病院は眺めは良かったな
海も見えたし山に落ちる夕日も美しかった
避難準備地域の原町はどうなってしまうんだろう
つくづく病院は市の中核であり
病院が機能しなくなると市も崩壊してゆきます
実家も墓だけがあるがあとは何もないです
でも墓があるだけでも縁がある
あそこは自分が墓守になっているんです
二宮尊徳のことなど冊子到着して読みました
二宮尊徳が伝説の人で書き残したものがないから本当の像をつかみにくいでしょう
富田氏が作りあげたのが二宮尊徳だったというのもありえますね
最近自分は忙しいのでなかなか答えられないです
家事全般やっているので忙しいから長くなると答えにくいです
相馬郷土史は互いに研究を深めてゆきましょう
半杭氏なども郷土史研究でプログ書いています
小高出身の人です
小高はあまり行かなかったから今は行けなくなったので残念です