2016年04月02日

家事とか保育とか介護とか、、、大家族でしていた (家族が崩壊して非情化する社会の危機?)


家事とか保育とか介護とか、、、大家族でしていた


(家族が崩壊して非情化する社会の危機?)


人間社会は進歩すればするで問題が生まれる、保育士がたりない、介護士がたりない、子育とか介護とかはもともと家族してしていたものである。
家事そのものか今や外国人にしてもらい主婦には外で働いてもらうというのも歴史をふりかえり考えると対比して見えてくるものがある。
それは原発とかでもそうであり書いてきた。
江戸時代の対比で見えてくるものがある。江戸時代は戦前から戦後十年くらいまでの継続があったのだ。
大家族だったのは戦前でもうであり戦後の高度成長時代に核家族になった。
だから古い人は子供生んだら生んだ女性が育てるのが普通だと言うのもわかる
つまり家事とか保育とか介護はもともと家族の中でしていたのである。

ただ家事というのは戦前でも自分の母親が東京に女中に行ったように中産階級でも女中を雇っていた。それだけ家事自体が重労働だったのである。
洗濯機もないし洗濯だけでもゴシゴシで洗濯板で洗っていたら手間である。
近くの川で洗濯していたのを子供のときみている
家事のために女性はかかりきりになっていたから外で働くことはできない
ただ戦前でも養蚕とか仕事が家内工業というか家自体仕事場になっていたことで女性は家で働いていたのである。
戦後でも自営業が多かった。小さな店でも繁盛していたのである。
商店街が栄えていた時期があった。そういうときは家で働いているから会社で働くのと事情が違っていた。
農家でも養蚕とかの仕事は家と一体となった仕事だったのである。
家の作りまで兜作りの屋根とか養蚕向きに作られていたのである。

そもそも保育士とか介護士という職業などなかった。家事の仕事は女中としてあった。
看護師も看護婦も仕事としてあった。
家事とか保育とか看護とか介護でも家でしていたのでありそれをしていたのは女性だった、嫁だったのである。
女性が外で働くのは戦後でも高度成長期の時に専業主婦は三食昼寝つきで楽だと言われていたからそういう時代があった。

「専業主婦」が出現したのは1960年代高度経済成長時代

それまでの主婦は各地方で農・水産・林・商業のそれぞれの家業に従事していました。
また、今のような核家族ではなく、大抵が大家族であり、長男の家へ嫁いだ女性は家業に加え家事も今の時代以上に熟さなくてはなりませんでした。

要するに家族でしてきたものが外に分化して専門家に頼む、保育とか看護とか介護は家でしていたから病院に入院しても病院で死ぬより家族が看取って死んだ。
自分の父親もそうだったが近くにかかりつけの医者がいたり往診してくれたりしたが実際は家で看取ることはその時も大変な苦労だった。
でもみんな家で普通に死んでいたのである。葬式でも結婚式でも家でしていた。
だから葬儀でも専門家に頼むということもなっかたしそういう職業がなかったのである。葬式は隣組でしていたとかそれが会社に頼むことはなかった。
今はおふくろの味などなくなっているかもしれない、惣菜はスーパーで買うとかなる
第一自分で家事をやる料理をしてみると手間がかかりすぎるのである
料理するというより何か適したもを買うものを見つけるのが料理することなのである。

要するに家族がホテルのようになり寝るだけの場だかなっているというとき戦前とかの大家族とかの家族の重みがなくなってしまったのである。
外で働き男性も会社員であり女性も会社員であり外で働き保育は保育士にまかせる、それで保育士がたりないとか保育園がたりないと騒いでいる
それは介護でも同じである、介護士がたりないとか騒いでいる
その福祉にかかる金も膨大なのである。それで介護だと政府では在宅介護にしろとなる
つまり保育士とか介護士に金を払っていたらその建物でも用意するとなると金がかかるのである。
大家族の時代だったらそれらは家族でしていたから政府ではその金を負担していないのである。


そもそも保育まで子育てまで外部にまかせるとなるとそれが人間的なのかと疑問をもつ
でも主婦にも働いてもらわないと困るとなる
それで家事をしてもらうために外国人を入れるというのもまた何なのだろうとなる
様々な専門家が増えて家族さえ掃除する仕事の人がいてしてもらうとかそれはとりもなおさず家族というのは外部のもの頼りになりただホテルのように寝るだけの場所になるのだろうか?
家族は夫は外で遅くまで働き主婦はパートであれ何であれ外で働く、子供は保育園に保育士にあずけ介護は介護士にあずける、そのためには外で働いて金をためて保育士に介護士に支払う、家はホテルのように寝るだけの場所だとなる
戦前とかは家族が家が仕事の場でありそこが小さな社会にもなっていた。
そこで人は人間として育っていった。そこで基本的な人間の有り様を学んだとなる

それが家族の役割が減少して外部まかせ頼りになる、人間の社会は便利になり進歩してきたとか言われる、でも進歩したというとき退歩してもいるのではないか?
母親が自分の子供を育てられないから保育士にまかせるとか親を介護できないから介護士にまかせるとか何かそれが進歩なのだろうか?
それは人間的なことなのだろうか?基本的な人間的な営みが奪われているのではないか?
それは便利さを追及してかえって人間として肝心なものを営々とつづいてきた基本的な
営みすら奪われているのではないか?
それで子供が生まれたら虐待になるのは子供を育てるのが面倒になっているからである。だから子供が生まれたら保育園に保育士にまかせる、親が病気になったら入院させる
看護もしたくない、介護もしたくなんから施設に入れる、介護士にまかせるとかなる
そこに家族の愛情も受けられない、何でも金で頼むとなる
その金を稼ぐために女性も妻も外で働かなくてはならないとなる

何かこういうことが当たり前になっているけど本来の人間の生活なのだろうか?
日本人は子供大事にしてきたとか、家族を第一にしてきたとか言われるがこれまではそうだった。そういう家族自体が崩壊しているのだろうか?
それで子供はいらない、子供は邪魔だとか虐待する、子供を作らない方がいいとなる
江戸時代は日本人は子供を可愛がっているのに外国人が驚いたとか、みなん幸せそうな顔をしていたとか言われる
そうなると現代人はこれだけ豊かな便利な生活していても不幸せな顔をしている人が多い子供など育てるのがめんどうだとか虐待もする
これは家族が崩壊して人間的な生活が失われたからではないか?
そこで求められているのは金だけだとなる
「金をくれ」と家に来て実際に家捜しているような人がいるということも驚きである。
そこには理由があってももう人が求めているのは金しかない
事業に失敗していた人は成功を装い借金を病気の自分に要求してきて全く人間とみていない、同情もなにもない、こいつ死んだら金になるとかなくなっているのだ。
原発避難民でもみんなどれだけ補償金をもらうしか関心がない
故郷がどうのこうのとかそういう思いもなくなっているのではないか?


この文明は一見すると進歩してこんないい生活をできる時代はなかったという人もいる。しかし一面は人間的生活すらできない、退歩した社会だとも見れる。
昔はただ古いとか否定するけどそもそも家族を中心にしてある社会が古いからと否定してホテル化した家族が新しいから進歩しているのかともなる
例えどれだけ豊かな生活をしていても根本的に家族の愛情すらなくなる社会はもう人間ではない、野獣的な人間と化しているのではないか?
最後は金だけあればいいとなり愛情など必要ないから親でも金があれは施設にあづければいいとかなる,それもやむをえないとかあるけど何か根本的なことが見失っているのではないか?


異常と正常の区別すらつかなくなっているかもしれないのだ。「オメエ,,,何なのだ」と自分のプログに発言してきた人もいるが例えば普通の社会ではオメエはどうだなと初対面の人に言うだろうか?
これも異常なんだけどネットては前からそうだったのである。でもプログなどでは変わったのでありそういう発言は取り入れなくなった。前はインターネットでもニフティのパソコン通信ではそういう発言を拒否できなかったのである。
つまり異常なのか正常なのかわからなくなる世界は怖いことなのかもしれない
人間が人間でなくなるときその社会はどんなに文明的になり科学的技術として優れていてもそこに住みたいと思うだろうか?
例え原子力文明とかでふんだんに電気を使い放題の社会でも人間の情すら喪失した社会に住みたいだろうか?
日本人の義理人情など田舎でもどこでもなくなっている、馬鹿正直な女性のことを書いたけどそれは希少動物であり絶滅しているのである


江戸時代にもいろいろな矛盾があったし飢饉もあったしやはり苦しい生活でありそれと比べれば今は天国だという見方もある、一方でなぜ江戸時代に日本にきた外国人が日本人はみんな幸せそうな顔していたというのだろうか?
現代はこれだけ豊でも幸せそうな顔している人は少ないだろう。
だからこそ子供まで虐待しているのである、不満がある人は必ず誰かにやつあたりする
それが殺人までにもなるし強盗にもなるし家政婦が勤めた先の家々に火をつけて火事にしたとかやつあたりする、そういう経験を自分もしたから怖いのである
その原因が大家族の崩壊があった。今は姑よりも嫁の力が大きく姑は小さくなっていなければならないとかまず一緒に住まないとかなっている
そして一人暮らしの老人が増大しているのである。
何か今の社会は人間的な秩序すら、コワとなる核となる家族すら崩壊するとなるともう人間社会でなくなるかもしれない、家族より最後に頼りになるのは金だとなる
津波であれ原発事故であれそうした社会に対して大きな変わり目に起きた
つまり人間社会が大きく変わることを強いるものとして起きた
人間社会がそれだけ非情化しているということで自然も非情になったともとれる
だから天変地異とともに社会も大変革が迫られる時代になったともなる
さらなる大きな事件とか事故とか天変地異がこれからも起きてくるかもしれないのだ。
こういう時代は犯罪も増えてくる、それも凶悪犯罪が増えてくる、モラルが麻痺してくるからそうなる
だから人間は人間にとってオオカミだという怖い時代になってきている
保育問題でもそんな大きな問題と関係ないというけど社会はみんなつながっているのだからそうしたことも無関係ではないのである。






タグ:保育介護
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