2016年04月08日

インターネットの検索で共通項目を探す (詩にもその手法が通じるー燃える樹という詩と自分の詩の共通性)


インターネットの検索で共通項目を探す


(詩にもその手法が通じるー燃える樹という詩と自分の詩の共通性)



― 燃える樹 ―


どっしりと
根をおろしたまま
もうどこへも
行けない
樹は樹であることを生きている

ふかく足をふんばり
たかく胸をふくらませ
ひろく腕をのばしながら
百年も千年も
いのちを
あたらしく
いのちを
ふかめてきた

樹も人もおもう心は同じ
春には若葉でわらい
夏は茂ることですずしい
秋はもみじした葉が
美しく舞うし
冬には
すっぱりはだかになって
自分をみつめる

寒風にふるえながらも
地底のあしうらから
天をさすほそい指さきへ
いくすじにもわかれて
たちのぼる
いのちのぬくみをだいている

くらやみに
しんといてついて
立つ樹
無心な樹よ
芯で燃える

みずかみかずよ/『こえがする』より



生きている樹の詩


樹のように偽りなき真を生きる
その芯は固く梢は鋭く天をさす
枝々はしなやかに伸びて鳥がとまる
新緑の若葉が風にそよぎ鳴り
かなたに残雪の嶺が高々と光る
誇らしく堂々と迫ってくる
峠を越え木蔭の道に休む
この荒木の幹の太さ、枝振りの良さ
真実に生きよ、自然は汝に呼応する
信頼の熱い血が脈々と樹に流れている
樹はものではない、生きている命
樹は根から幹から枝と血が通っている
鳥は甲高く鳴き樹々を喜々と移り飛ぶ
樹には初夏の眩しい光がさす
赤々とツツジはそちこちに燃え咲き
黒々とした岩に清水が轟き落ちる
樹は大地に深く根を張り生きている
樹は信頼と真に生きる
その樹に触れよ、その樹と握手せよ
その樹と触れて大きな力が湧いてくる
この世の人はみな偽りに生きる
それ故にその目は濁り体まで歪んでいる
汝は樹を友として天地に通ぜよ
樹は自然の中の一つの弦なり
天来の楽が汝にひびきわたるだろう
今風はそうそうと吹きわたりなお樹は伸びている
子供のように若人のように希望に燃えて伸びている
樹は若々しく四方に枝をのばす
ぴんと張りしなやかに枝を伸ばす
そこに鳥はとまりゆれ飛びうつる
樹は鳥とともに生きている
若葉は風にそよぎ初夏の光がふりそそぐ
かなたに残雪の嶺が光り迫る
樹は生きる歓喜にふるえている
樹の力は大地からわき上がる
大地と血脈を通じているゆえ喜びが深い
大地を離れると人の命は弱る
大都会はいくら繁栄しても不毛である
汝は樹とともに生きよ
樹の力を五体に感じよ
汝もまた樹とならむ



燃える樹というキーワードで検索したとき自分のこの詩が読まれた。
インターネットの検索はともかく共通なものを探すのに向いている
不思議なのはどういうわけかリンク元をたどってゆくとどういうキーワードで読まれたかわかる
グーグルで自分の「読まれない詩」というのが初めに出てきてそのあとに「燃える樹」という詩がフログに出ている
ただこの人の詩はその燃える樹しか出ていない、あとは詩集を買う他ない、それも3500円もする、何か詩というのはこうして詩集自体が高いのである。
そもそも詩は売れないものだからそうなる。小説のように売れれば安くなる。
売れないから詩集自体が高いのである。
出版社から出せばそうなる、インターネットとか電子本だったら安くなる


ともかく詩というと別に有名なものでなくても読まれないというより読む方法がないのである。
最近ヘルダーリンの詩を読んだ、普通だったらこれは前から読んでもいいはずである。
なぜ自分が読んでいなかったのかというとそういう詩集があることを知らなかったともなる、そもそも有名な人の詩でも読めない、買うことができないのである。
ただ最近アマゾンで詩集を集めている、その詩集は未だに文庫本でも高いのである。
つまり詩を知るとか詩を書くものにとって詩が読めないということが詩をより深くた探求できないものにしているのだ。

詩を創作しているとやはりこの詩人は自分と同じものを追及していることが理解できる
それはいろいろな外国の詩でも自分と同じものを追及していることで共感できる
芸術は世界で共感できるものである。ただ音楽とか絵画と違って言葉が障壁になって理解しにくいのである。
だからグローバルに詩を追及するのがむずかしいのである。
でもヘルダーリンを読んでいてこれは自分と同じものを追及していたと共感してそれが自分の作品と一つになっていることを知ったのである。
そういうことはインターネットの検索で起きていて利用している
そもそも本からだけの知的探求はインターネットととは違ったものである。
まずキーワードから共通項を探すということはできない、一冊の本はそこで完結しているからである。

でも創作する方になるとその部分的なものでも共通項をとりだして並べるとそれが一つの作品と化すのである、それを自分はこれからそうした創作したものをためして発表する
詩はそれぞれ違っているようで一つのものとして詩の世界ができあがる
個々のものが一つになってシンホニーをかなでる、そのために本当は詩が過去の偉大な詩人でもインターネット上に出ている必要があるのだ。
そうすれば共通項を検索できるからである。ただ詩でも芸術は内容を読むのは相当に芸術に通達しないとできない、共通項といってもその内容の共通項まで鑑賞して理解できるかとなるとなかなかできない
最近自分はそれができるようになった。それは自分も自然の中で詩を追及してきたからわかる
ここでは樹だか樹をテーマにしたそれぞれの表現があり自分のテーマは石である。
樹でも石でも人によって表現が違ってくるのである。
それが一つの石の世界を表現することになる、インターネット的手法が詩でも通用することはある、ただ詩はむずかしいから内容を読めないと何が共通しているのかわかりにくいことは確かである。

ともかく「燃える樹」と自分の詩がいかに共通しているかわかるだろう。
この人はすでに死んだ人だった、でもこの人を知っている詩を知っている人は本当に少ないのである。詩も知られないし詩人も知られないのが多いのである。
そこが詩を探求する大きな問題だったのである。


天をさすほそい指さきへ
いくすじにもわかれて
たちのぼる
いのちのぬくみをだいている

この表現は女性的でありまさに女性だから表現できたのだろう。
天をさす細い指さきとかはまさに女性の表現だからである。
この人の他の詩はどうかとなるとみんながいいわけではない、詩も自分でもそうだが駄作が多いということもある
だから詩集を買ってみてつまらないと損したとなるのである。
でも知的なものにはなにか無駄が多い、それでも詩集を集めていないと詩を探求できないのである。

タグ:樹の詩
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