2016年05月24日

エジプト文明や江戸時代の稲作文明は安定した世界観をもっていた (現代文明は安定した世界観をもっていないからファシズムになりやすい)



エジプト文明や江戸時代の稲作文明は安定した世界観をもっていた


(現代文明は安定した世界観をもっていないからファシズムになりやすい)


●エジプト文明の3000年の持続性


「母材(土ができる前の元の岩石)の種類によって、土本来の性質がことなるので、理想の土はひとつではない」ということです。


エジプト文明がナイルの賜物というときナイル川の上流の岩石が土となり流れてきて定期的に洪水を起こし肥料となった。
そこに地球的ドラマを感じた。そういう地球的ドラマの中にエジフト文明が3000年つづいたのである。
洪水は自然災害は害のように見えるが洪水があることによって山林から栄養分が流れて肥料になる
肥料が自然によって継続的に供給されることによってそれだけの長い文明が維持されたのである。
農業を維持するのは土の栄養であり土が基本にある。
焼畑とか森林を燃やして灰にして肥料を作り畑を作っていたがこれは自然破壊になった。これは原始的農法で簡単だからはじめられた。
農業は肥料をどうするかなのである。
自分の庭でも花を咲かせていたが最近十年くらい咲いていた福寿草が咲かなくなった。
何か植えても消えてしまうのが多い、もともと地味がないのだからそうなりやすかった。土の栄養は放置しておくと栄養分が徐々に喪失して花すら咲かなくなり作物もできなくなる、ヨーロッパではそれでさんほ農作が行われた、土を休ませて別な土地で作物を作るのである。
つまりとをしたら土に栄養をもたせるかが問題になるのが農業である。
ともかくエジフト文明が3000年も維持できたのはそうした自然の壮大なサイクルの中に生活していたからである。
そしてそれはエジプト文明だけではない、マヤ文明でも日本だと縄文文明が一万年とか言われるのもそのためである。寿命が長い文明なのである。

エジプト文明というときそれが人類にとって何を意味しているのか?それを見るべきだろう。
その知識に欠けているがエジプト文明は自然の壮大なサイクルの中で持続していた文明である。洪水さえも自然災害もその文明に活かされていた
自然災害は地球規模でみれば災害ではない、洪水は土に栄養分を山林からる運んでいたのである。
これは科学的に探求すればきりがないだろう。その面の知識は自分にはない。
でも興味あることは文明とは何かというときエジプト文明を例にすれば一つの世界観をもつ、それはマヤ文明でもそうである。
それはその土地の自然から作られたのである。エジプト文明はナイルの賜物というときナイル河から作られた文明である。
そして農業中心だから定着的静態的文明となる。自然循環的文明ともなる
この世とあの世があるときエジプト文明ではあの世でもやはりこの世でしていたこと耕作など同じことをしていたのである。この世とあの世は連続していたのである。

これも何か変わっているのかとなると現代文明を見たら例えば東京でぎゅうきゅうづめの電車に乗って通勤していたり様々なストレスに悩まされて生活している、そういう生活をあの世までするとなると嫌になるだろう
普通はあの世はこの世の苦痛から解放される場所なのである。
それは仏教でもイスラム教でもキリスト教でも同じだった。あの世に極楽があり天国がある、この世は苦の世界でありこの世の継続があの世にあったとすると耐えられないのである。
もちろん生老病死はあるからそのために人間は苦を強いられるからあの世ではそうならないと願うことはわかるしそれを克服するために宗教がある
ただ全体的に見たとき世界観から見たときエジプト文明はこの世でしたことをあの世でも同じようにしていたということが現代からみると特殊なのである。
全くこの世のことがあの世にそっくり移行している、それは壁画に描かれている
こういう世界観は不思議である。この世がそれだけ悪いものでないからこそあの世もこの世の継続となったとなる,個々人は別にして全体的にそうみていたのである。
するとエジプト文明は3000年持続して平和で充足した生活だったのかとなる
ただエジフト文明を現代で理解するのは本当にむずかしいと思う


●各地の自然に根ざした世界観の喪失が国家主義やマルキシズムによる世界大戦を生んだ


なぜエジプト文明を例にしたかというと現代文明は混沌の文明である。何か一つの世界観などもてない文明である。世界観というとき自然に根ざして生れるからである。
東京のような所でどういう世界観をもって生きるのか、像をもって考えよというときその像がないのである。自然の像というのがない世界である。
高層ビルを見上げてどういうイメージか世界観が生れるのか?
そのことから人間にどういう影響を与えるのか?
それは世界観がないというとき精神文明がないということである。
文明とは日本文明とあれば日本独自の自然に根ざして文明があった。それが神道なのかもしれない、とにかく日本独自の世界観が作られていたのである。
それは日本語にもあり一つの日本文明が作られていた。
そういう世界観が現代文明ではもてないのである。
世界観がもてないというときカルト宗教団体などが跋扈したりナチスがファシズムが生れたりしたのが現代である。
それは日本だけではない、世界的文明が均一化して起きたことである。

 抑圧された国民は現実から目をそらし自分を見失う、そうしたむっつりとした空虚な国民の顔は機能障害社会に共通した不安と恐れを示している
 国民の顔に承認を見つけられない故に全体主義指導者は拡大を試みる以外に生き残る道はないと確信する、つまり、政治哲学の正しさを証明するには,他の国や民族ですらこれに従っているのたと国民に示す他なくなっているのである
 (地球の掟ーアル、ゴア)

 これは現代に近代に現れた世界的現象である。ナショナリズム、国家主義、マルキシズム的世界的労働者の階級闘争の共産主義でも同じである。
 ナチスもまたそういう共産主義の世界的闘争と共通したものがある。大量殺戮が行われたからである。それは現代のグローバル化した文明の病から生れたのである。
国民とは江戸時代には存在しない、それは国家主義により強制的に国民が作られたのである。国家を尊ぶのはわかる、でも政治的強制的側面が強いのである。
それは日本だけではない世界規模で起こり世界大戦となったのである。
創価のようなカルト宗教団体もそうした現代文明の病から生れた、それは強制的に信者にして国家を支配し国民を支配することであるから共通している、つまり他のカルト宗教団体でも一つのファシズムの変容したものである。

承認しないのに強制化して国民を支配しようとしているのは同じである。宗教はその道具にすぎないのである。
ハイルヒットラーと題目を唱えることはさぼと変わらないのである。
要するに世界観が喪失したばらばらとなった人間が狂気的に一体化しようとするのがファシズムである。
それはカルト宗教団体も同じなのである。すてに一体感がないから強制的に一体感を作るのがファシズムである。
それは現代文明が個々ばらばらの部品のようになって一体感が一つの世界観がもてないからなのである。

それは明らかに一つの世界観をもったエジフト文明であれマヤ文明であれ江戸時代の稲作文明では起こり得ないことであった。
そこでの民はいろいろ不満があり問題があっても一つの文明の適合していてその顔はその世界観を承認しているから世界を肯定的に見ていた故に外国から来た人が江戸時代の人々を見てみんな幸せそうな顔をしていたと見たのである。
各地のそれぞれの一つの世界観に生きることが喪失したときそうした国家主義とかマルキシズムとかの無理な強制的な世界観を作り出したのである。
マルキシズムなどでとてもこの世界を解きあかせないのである。それは階級という一部を取り上げたものであり世界を一部の狭い窓から見たにすぎないのである。
世界をみるというときみんなそうして一部を見ているにすぎないのである。マルキシズムはそれをあたかも世界を解きあかしたように錯覚させて世界を混乱させたとせなる

●科学技術文明は自然を支配する世界観だが原発事故のように突然崩壊する危険

人間がエジプト文明であれマヤ文明であれ世界観を自然の中で構築できなくなったためである。現代文明からは世界的にどこでもカルト宗教団体とか宗教もカルトになりやすいしナチス的ファシズムが生れやすいのである。
一つの固定化した世界観がないから人間は常に不安動揺の中に置かれているのである。
江戸時代が安定して外国人が来たときみんな幸せそうな顔をしていたというとき貧乏でも一つの安定した自然の日本的世界観で生きていたためだろう。
例えばエジプト文明にタイムマシンで行ったらその顔まで何か違っている
そこには安寧的な不思議な顔になっていたかもしれない、それは江戸時代の人々の顔とにていたのである。一つの安定した世界観の中で生きていたからそうなっていた
江戸時代も今になれば不思議となる。ただ明らかに稲作文明で一つの共通の世界観に生きていた。それが失われたとき柳田国男が日本の民俗学を起こした。
そういう新しい学問が生れたのは実はそういう世界が失われたときなのである。
稲作だとこれもいろいろ奥深いから科学的には追及できないが山から水が流れて田んぼをうるおし米が実る、その自然のサイクルの世界観をもっていた。
それが死生観に反映されていた。死んだ先祖は山に眠り春になると里におりてくる、春には田植えがはじまり再生するからである。
それは自然のサイクルの中で生きていたからそういう世界観になった。
それはエジプト文明ともにているのである。
自然の中で構築された文明は息が長い、そして世界観をもち人間も安定する
現代の人間が不安動揺とストレスの中にあるのとは違っていたのである。

自分が詩として山とか樹とか岩とか石とかを安定した要素として求めて書いたのもそのためである。
都会にはそういうものはない、絶えず不安と動揺のなかにある、グローバル経済でも日々不安定であり株の値動きにふりまわされている。
現代文明は常に動揺と不安のなかにあり安定しないのである。
グローバル経済を見ればわかる、世界で何か事件があればたちまち株は暴落してしまう。そこに安定した世界観を構築できないから世界的共通の問題として文明は今は共通でありそうなっている
科学技術文明でもそうだがこれも恩恵をもたらすにしても今回の原発事故のように不安定なものだったのである。
原発事故によって放射能で人間の生活の基本となる土や水や森林などが汚染されてたら生きることもできなくなる
科学技術は万全なのものではなく不安定な要素が常にあり一挙に崩壊することがある


原子力はそういう不安定なものであり危険なのもだったのである。
そしてなぜ原子力が原発を維持しているかというと電気を供給することより核武装のためにある、核を作るために原発を維持しているのである。
それはアメリカなどの圧力でもそうしている。
つまり科学技術文明はエジプト文明のように3000年とか持続するものではない、一時的に消耗する文明なのである。
それは精神的にもそうでありそのために一つの世界観を作れない、そこで人間は常に不安動揺の中に置かれている、現代人の顔が江戸時代の人やエジプト文明人の顔とまるで別人になっていたことでもわかるのである。
科学技術は必ずしも人間を幸福にするものでもないのである。
大きな自然のリサイクルから離れるとき人間は人間ですらなくなってしまうという恐怖があり現実そうなっているのである。
常に世界崩壊がカタスロフィが語られるのはそのためなのである。
外部的にそうなるのではなく内部的に現代文明が不安定であるから常に株の暴落とか何か突然に崩壊現象が起きるということにおびえているのである。
エジプト文明とか江戸時代にはあまりないことだったろう。

ただマヤ文明だと歴が発達して2020年に世界が崩壊するという予言をして滅びていた。
そういう終末観がやはり仏教でもキリスト教でもある、だから人間にはそういうことは常に恐れてあったとことは確かであてる。
それは常に自然の恐れに根ざしていてそうなった。
現代はそうした自然災害で滅びるというより何か科学技術の崩壊で今回のように原発事故のようなもので滅びるという不安が大きいのである。
科学技術が実は一番の不安要素となっているのも皮肉なのである。
なぜなら科学技術こそ現代を文明を作ったものだからである。
過去は自然災害が最大の崩壊の不安要素であったが今は人間か作り出した科学技術が一番の不安要素となっているのである。その象徴が原子力であり核兵器になってたのである。

穏やかな雲間に雷雨が潜むように
今日私に媚びる者が、明日には私を傷つける
ほとんど重量とてない取るにたらぬ原子から
世界は最後の審判を引き起こす
(ハンス・カロッサ)

これは原子力のことだった。原発は金になるからこの辺の住民も媚びていたのである。
双葉町では「原子力が開く未来」とか看板まで建てていた。
それが今度は住民を傷つけたのである。そして核の放射能で滅びる
土も水も汚染されて住めなくなった。
人類は意外なもので滅びる、いろいろ言われるが結局予期せぬもので滅びる
その一つに原子力や核エネルギーがあったのである。
posted by 老鶯 at 15:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/175416964
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック