梅雨の日
(暮らしの跡は建物に残っているー家は記憶である)
廃屋と化した町医者の医院
我が母のこの医院に通いしを廃屋となり
五月の庭に咲きしも誰か見むあわれかな
この裏路地の道我が日々通り行きしも
今日雨しととふりこの医院の思うかな
母は言いにしこの先生の優しきと
かつて老人のここに集まりしを
その母も遂には死して帰らざるかな
この医院は誰も住んでいない、この建物を見るといかにも町の診療所という感じである。自分の母はこの医院に良く通っていたのである。
だから今になると不思議な感じになる、母は手押し車を押してこの医院に来ていた。
自分も一緒に来たことがあった。
この医院は相当古いのかもしれない、建物の感じではそうである。
廃墟趣味とかで訪ねる人がいるけどそれはなぜなのか?
やはり悪趣味というのではなくそこに人間が住んでいたということで魅力を感じる
要するに人間の生活を刻んだ過去が建物に残っている、何か思い出すにしても思い出すものがないとなかなかできない、もしこの古い建物が取り壊されればなかなかここに医院があったということすら思い出すことができないのである。
つまり過去の記憶が建物がなくなると消えてしまうのである。
これも街中にある一つの過去の記憶として残っている
いかにも街の医院であり何か素朴な感じがした。
今までは注意していなかったが母が死んだことでこの医院のことをふりかえったのである
人が死ぬとその死んだ人の跡をたどる、相続で戸籍でその跡をたどったことを書いた。
母の前の夫が東京の人でありその跡を戸籍からたどった経験は不思議だった。
両親とかなるとその足跡をたどりたくなるのは自分の人生とも深くかかわっているからである。
この医院に通ったということは何気ないことであり特別なことではない、でも何か人間が死ぬとそうした何気ないことが人生の一こまでも記憶として刻まれていることを感じる
それぞれの街で生活すること、村でも生活することはそこに人間の記憶が刻まれているのである
だから原発事故の避難区域になったような所でもそこに生活した人々の記憶が刻まれている
でもこれがただ日々何気なく生活しているときは意識しないのである。
人が死ぬとなぜかそれが貴重な人生の時間のようになるのである。
だからそうして暮らしていた街には愛着あり村でもそうだが他に移るということが辛いとなるのである。これは若い人と老人では全く違ったものとなる。
若い人は他でも新しい生活がはじめられるからである。
ともかく何か人間は当り前に普通にあるものを意識しない、ただこうしてなくなると失われると意識するのである。
死んだ人でもやはり記憶をたどりその人を浮かんでくるのである。
そして建物は家は形となって残っている記憶なのである。だから建物がなくなると記憶も消えてしまうのである。
故郷とはそうしてここに生きた人たちの記憶が刻まれている場所なのである。
ただその記憶にしても普通は意識しないのである。
こうして人がいなくなり廃屋となりここに医者がいて町の人が通っていたなと思い出すのである。廃墟趣味というときそこがかつて人が住んだということで何か人の匂いが以前としてするからひかれるのである。
ただ他にも廃屋があくけど庭があっても人が住んでいないと本当に淋しいなとなる。
庭に置かれた石でも人間の匂いがふるからである。人が住まないと本当に自然にある石より淋しいものとなる
そういうことがこの辺の原発避難区域とかで起きているのである。
町自体が村自体が廃墟化したからである。家自体が遺跡のようにも見えたのである。
家とはともかく記憶が形となって留まっている、そこに家の意味があったともなる
家が失われると共に記憶も消えてしまうのである。
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