2016年06月22日

歴史文化を喪失させた廃藩置県 (東京からみちのくへ帰る旅)


歴史文化を喪失させた廃藩置県


(東京からみちのくへ帰る旅)


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東京の思い出というと四年間大学にいたとしても神奈川県であり離れていたからほとんどない、でも旅では必ずよる

東京駅皇居によれば日の本の国をし思ふ秋晴れの日

輝やきて銀杏の散りぬ東京駅明治の世より古りにけるかも

皇居があればそうなる。東京駅から皇居へと日本の中心だと考える
でも東京から昔を偲べないのはなぜなのかとなる、人間は何か過去でも残っていないと昔を偲べない、だから建物が城でも残っていれば偲べるのである。
そもそも地方だと城が今でも中心としてある。熊本城が地震で破壊されたときなんとか復興しようとする、それは城が以前として街の中心として象徴化しているからである。
それは歴史の継続なのである。会津でも城が中心であり大阪だって大坂城がありあの城跡の石垣に当時を偲べる
江戸城となると確かにその跡があっても日本の中心としてあった江戸城から当時を偲べる感覚にならない。他にも大名屋敷があったがそれも何もなくなった。
大名屋敷の広さは甲子園なみだったというとき驚く、それだけ広い場所があったというだけでも驚くだろう。テレビで見ていても実感できないのである。
歴史を偲ぶというとき何か偲ぶものがないとできない、その点京都には歴史を偲ぶものが残っているから違っている

明治維新というのが今見直されているのは無理がありそれが弊害を生んだのである。
そう強いられたということもあるが天皇は大事でもあれほど持ち上げたこともそうである天皇制と民主主義となると合わないのである。忠君愛国となると天皇が親であり民はその子でありとなる、それは民主主義とは相反したものだからである。
そうした無理をした矛盾が太平洋戦争であれひきづっていたのである。
それを一番象徴していたのが廃藩置県なのである。
これはもともとあった藩を廃止して武士をなくして平民として国を国民国家にした。
そこで昔から培った歴史の継続が失われたのである。
江戸時代の300年は日本の歴史が培われた時代でありそれを一挙に廃止したことが今でも弊害となっている。

人間がアイディンティティをもつとき今のような県単位ではない、もっと小さな範囲で自然であれ歴史でもアイディンティティをもつのである。
福島県でもハマ、ナカ、アイヅとありこれは天候も風土も歴史も違っている
まず会津となると浜通りからすれば全く違った風土であり山国であり雪もふるからアイディンティティが違っている、会津から形成されるアイディンティティは会津らしいものとなる、福島県は会津県と二本松県と磐城県とかになっていた
それはどこでも藩の延長として県を考えていたのである。それが無理して福島県に統一された。そこで歴史の継続とか風土を地理を無視した大きな県となってしまったのである。そもそもなぜ福島県なのか?福島がとをして出てきたのかもその歴史をたどっても定かではない、そのこと自体が福島県という名になじめないことが一体感をもてないものになっている。
それは他でもそうである。茨城県の由来は

茨城郡条には、「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。また、『万葉集』にも「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」という歌があり、この故事にちなむ茨城(うばらき)という地名がみられる。

これは中央から大和政権の蝦夷征服から名付けられた、これも違和感がある。こうした名前は差別的にも思えるし地元からすると嫌だともなる
むしろ常陸国というのがありそれがふさわしいとなる。
それより東京圏は関東であり鎌倉時代から作られた所である。東京というのは鎌倉時代には湿地帯である。このことも歴史を錯覚させている。鎌倉というと狭い領域だからである江戸というとその百倍とか広くなり人口も増えたからである。
鎌倉時代が実際は歴史の基盤を造ったのであり陸奥にしてもそうである。
陸奥の子孫はたいがい鎌倉から移住した武士の子孫である。相馬市でも千葉氏から分かれたものでありか鎌倉時代から継続されている、南相馬市の鹿島区の岩松氏は鎌倉から出ていてその由来がはっきりしいる、それが相馬地方の最初の支配者だったのである。
それは東北では鎌倉から各地に移住した人たちがその子孫になっている。

そして江戸時代には関八州というのがあり群馬とか栃木県とかもその中に入っていたのか、常陸国も一部はその中に入っていた。地理的にも歴史的にも関八州は一つの領域としてあった。そこには天領が多いというとき東京の回りには城がないのもそのためである。
小田原城は北条氏の城であり関八州とは違う。茨城県に笠間藩はある。
でも福島県になると城が大きな城があるから違っている

関八州家紋

上野=群馬
下野=栃木
常陸=茨城
武蔵=東京
下総・上総・安房=千葉
相模=神奈川


@取手市・つくばみらい市・常総市付近は旧下総国です。

A神奈川県では川崎市全域と、横浜市の戸塚・泉・瀬谷・栄の各区および港南区の西半分を除いた地域は旧武蔵国です。

AB埼玉県は全域が旧武蔵国です。

雉子鳴くや関八州を一呑に 小林一茶 



関八州というと感覚的に江戸時代には庶民にもあったということである。
つまりみちのくと陸奥国と境を分けるのは関八州である。みちのくというときそれは関八州を離れた地域であり白河の関がそうである。
それで芭蕉の時代でもそうであり白河からがみちのくへの旅だったのである。

ともかく県単位でイメージできないというときそれは廃藩置県の無理した区分が行政がそうさせた。それはイスラム、中東の世界がヨーロッパの強国によって国境を無理やりつくられたのとにている。藩単位で城が中心としてあった歴史が廃藩置県で喪失した。
福島県などは特に地理的にも歴史的にも一体感がない、会津は会津としてあればわかりやすいのである。
第一人間がアイディンティティをもつというとき余り広い範囲になるともちにくいのである。ちょうど相馬藩くらいの広さがいい、この範囲は自転車で行ける範囲だからである。それでも実際にその地形は複雑であり魅力がある。だからあきないということがある。
その中でアイディンティティを作るということで詩にしたのである。
会津となると別な国なのである。それは古代からそうだった。

 会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲ひにせもと 紐結ばさね

古代から会津は一つの国としてあった。国と出ている所は万葉集でも少ないだろう。会津はそれだけ国として成り立った歴史が古いのである。

いづれにしろ明治維新の負の部分も大きかった。それが今になって見直されているのである。太平洋戦争までは明治維新の継続であり太平洋戦争に負けた結果として明治維新が見直されるようになったのである。
明治維新からここ140年間とか過ぎれば歴史が見直される、これは西欧化でありアメリカ化が極端にすすられた時代である。その反発として太平洋戦争があった。
それは奈良時代に唐風文化が席巻したとにている。次ぎに平安時代が国風文化になった。つまり次の時代は国風文化の時代なのである。日本の歴史と伝統が見直され新しい時代を再構築するのである。新しい日本文明を作る時代なのである。
それは日本のアイディンティティを作る基盤が必要である。それが東京にはない、経済力や工業力があっても自然がないから文化が生れない、耕すべき大地もないから文化が生れない、像で考えろと言ってもその肝心の像とすべき自然がない、毎日高層ビルを見上げているだけでは文化は生れないのである。
それは戦前からの国家主義ではない、まず日本文明のアイディンティティを作り直すことである。それは東京ではできない、それぞれの地方からはじまるのである。
日本の教育が実は各地の藩校で行われていた言うとき東京中心ではない、明治維新の時に無理やりに東京中心の中央集権が行われた、標準語も普及したのである。
その時すでに各地の歴史とか文化も失われていった。それは欧米とかに対抗するためにそうなった。

だから歴史を文化を見直すというときまず各地の藩があり城がありそこをアイディンティティ化して次ぎに更に広い範囲に拡張する、それは県とかになるが県は無理して作られたからどうしてもアイディンティティが持ちにくい、それからさらに古代の国へ拡張する、東北だったら陸奥がみちのくがそうなる、それは関八州の領域とは区別されるのである。大和にしてももともと奈良であり奈良の風土があり形成された
それが象徴されているのが

大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し 美し

こういうふうに美しい場所が故郷、国のまほろばなのである。それが東京のようになったらありえないのである。高層ビルに囲まれていたらありえないのである。
東京はなにか怪物的であり巨大な胃袋になっている。物質的なものしかないのである。
そこでアイディンティティを作ろうとしてもその基盤がないのである。
だから東京はその歴史と風土から形成されたものが失われているからそこから国家主義に飛躍する。文化がなくて中央の権力が肥大化する。時代をふりかえれば奈良であれ平安であれ鎌倉時代であれ文化を作ってきた。国家というときそういう文化があって国家なので国が誇るべきはアイディンティティは軍事力や経済力ではない、それが必要であっても時代が過ぎれば文化がその時代の成果であったことがわかる。

言葉が文化というときアメリカなどは英語でありもともとはイギリスから派生したものである。確かにアメリカ英語となり違っているが基本的にはイギリスの文化である。
アメリカはモンゴルとにている、軍事力があり技術力はある、でも文化がない、モンゴルは拡大するだけだった。そこに人種も関係なく人材を東洋した世界国家である。
でも文化は形成されない、ただ拡大するだけだった。それはアメリカとにているのだ。
それは一過性で終わった。ローマとも違っている、ローマには文化があったからその文化が継承されている。第一英語の基はゲルマンでありドイツ語である。そしたらその文化の影響を確実に受けているのである。
もちろん日本も漢字の影響が大きいけど純日本の大和言葉は失っていないのである。


ともかく上野駅から常磐線でみちのくへ向かう、その電車にのってみちのくへ行くという感覚は秋の日だった。大都会から離れまだ家が多いが地平に夕日が輝き沈んでゆく、その時東京の雑踏から解放された気分になる。
そして淋しさを感じみちのくへ帰るのである。その光景は心に残っている、秋にふさわしいのがみちのくだともなる、季節によってその感じ方は違っている
芭蕉は春にみちのくに向かった、その道のりは遠かった。
東北についてもやはり新たな歴史の継続としてアイディンティティを作る時代である。
それは古代から継続した風土から歴史から作られるのである。

上野駅い出で広がる地平かな秋の夕日の輝き没るかも

タグ:廃藩置県
posted by 老鶯 at 09:54| Comment(5) | TrackBack(0) | 日本(世界)文化文明論
この記事へのコメント
初めてのコメントです。

先日、旧姓の由来を検索した処、
<末続村の謎>という記事にぶつかり大変驚いてしまいました。
私の生まれ故郷であるからです。

その中に新妻一族に関しての記述にも驚愕しました。

新妻家は確かに末続に多い苗字です。
今は亡き母親の実家でもあり、特に母実家の新妻家は歴史がかなり古そうで明治になるまで苗字帯刀を許され、毎年新年の挨拶に平のお殿様に拝謁していたとか。
その時には馬に乗ったまま、城の門をくぐる事が許されていた。(聞いてた話では、昔は庶民、農民が馬に乗ったまま門をくぐる事は許されてなかったらしいです。)

又、ご先祖から家にまつわる代々の言い伝えがありそれを現在も守っている事柄があり、子供の頃から遊びに行くとよく聞かされておりました。


現在末続は原発問題等で将来が見えなくなっておりますが、ついコメントを入れてしまいました。

記事を上げて下さり有り難うございました。



Posted by はなゆ at 2016年06月23日 14:47


前にも北海道の人とか新妻姓の人がここに自分の先祖がいるとか書き込みがあり驚きました。
新妻とか岡和田とか荒とかの姓の人がコメントしています
新妻は宮城県にも多い、伊達藩にも召し抱えられたのでしょう
ずいぶん由緒ある家系の方のようです

末続というと磐城平藩(いわきたいらはん)は相馬の境ですから
自分は郷土史を調べる時必ず墓地を見て回っているんです
たまたま末続駅におりて石碑と墓地を見て新妻の姓がほとんどなので
ここは新妻一族の住んだ村だとわかった。
これだけ同じ姓があるということはあまり外からの人が入って来なかったのでしょう
末続駅というと無人駅だし人家も少ない所ですよね

考えてみると何か平坦な所がないから耕地としては住みにくい所だったようである
海にしても漁港があるわけではないし隠れたような場所だった。
そういう場所に新妻一族が代々住んでいた。
外からの人が入って来ない所だった。

ただ相馬藩との境であり相馬藩に移った人たちもいたことがその姓からわかる。
ただ新妻姓というのは宮城県にも多いということは伊達藩にも仕えた武士もいた。
馬に乗って庶民は城の門を入れないというのは当時はそうした身分の差がはっきりしていたということでしょう

相馬野馬追いでも行列を二階から見ると失礼になるとか何か江戸時代にもどるんですよ
ここは結構読まれているということは全国に新妻姓が多いからでしょう

北海道に移住した人もそうでしょう、北海道の人はルーツを自分の祖先をたどることが多いようです、自分の祖先がどこから来たのか知りたいということでしょうがどこ
あそこも津波や原発事故で人が住まなくなった?

竜田駅までは常磐線が通っていてバスで行って磐城まで行ってきました。
久ノ浜が30キロの境のようです、原発事故の影響がどのくらいあったのか?
その辺はわかりませんがこの辺と同じように被害があった、ただ津波の被害はそれほどでなかった、山ですから、末続駅も被害があったようです、あそこも高かったが被害があった
末続駅は何か前が海で後ろが山で地形的に印象に残る場所である。だからあそこは何か記憶に残っていた

興味深い話ありがとうございます
Posted by 小林 at 2016年06月23日 20:40
コメントへの返信有り難うございます。

身内にこの記事の事を知らせたのですが皆一応に驚いていました。

原発の影響も隣町の広野までは避難区域でしたが、末続は原発の場所から25キロ地点でありながらもかろうじて避難区域からは外れました。

末続駅を境に山側は津波の影響は何もなく、海側は壊滅状態です。

母実家の新妻家は山側の一番奥に家屋敷を構えておりますが、原発の影響で若い世代は近隣の町に出て行ってしまい、久しぶりに墓参りなどで帰郷しても、子供達の姿なく何とも寂しい限りです。

将来的には消滅してしまうのかもしれないとの思いもあながち外れてはいない厳しい現実も感じます。

処で母実家の新妻家ですが、先のコメントに書いた先祖からの言い伝えですが、

1 仏壇にキキョウの花は捧げない。墓にも。
2 里芋は栽培しない。

というのがあり、理由は
昔、新妻家の先祖である殿様が、間者であるキキョウという名の腰元の手引きにより敵に矢を放たれ、倒れて亡くなった場所が里芋畑だったと。縁側から崩れ落ちたらしいとの。

代々言い伝えられて来た事により現在でもそれを継承しています。
他の新妻家ではそんな事は無いらしく、里芋は近隣の家の方がお裾分けしてくれるそうです。(食するのはいいみたいです。)

当主である叔父も祖父も代々ご先祖様から言い伝えられて守って来た事を自分の代で無くしたくない、と言っていました。
現在は原発の風評により作物は作らなくなってしまいましたが。



他にも色々聞いた話はあるのですが、末続という地名もこちらの記事記載にあるようにこんな由緒あるとは思っていませんでした。

あ、思い出した事が。末続は天領だったとも母から聞いてます。

色々と思い出しつらつら書き出してしまいました。

有り難うございました。





Posted by はなゆ at 2016年06月24日 01:33
二回目コメント入れたのですが消えてしまったらしく、再挑戦でのコメントです。

新妻家に代々伝わる言い伝えです。

1) 仏壇にキキョウの花は捧げない。墓も。

2) 里芋は栽培してはいけない。


その理由は昔の先祖であった殿様が、間者であったキキョウという名の腰元の手引きにより縁側からすぐ庭先の里芋畑を眺めていた処、敵の矢に射られ崩れ落ちた場所が里芋畑だったとか。

その言い伝えを現在まで継承しているのです。今は亡き祖父も叔父も、代々の言い伝えだからそれを守るだけだと言っております。

近隣の新妻家にはそれは無くて、里芋が栽培されるとお裾分けして皆さん持って来て下さっています。(食するのは大丈夫らしい)

相馬藩でお家騒動があり新妻家に逃げて来、そこから名前がガラッと変わったとか。お寺の過去帳による。

末続はの明治時代まで天領でもあった。


又現在の状況ですが、津波と原発の影響は末続は駅を境に、山側と海側に分かれ、海側は壊滅状態です。確か7人亡くなっております。

新妻家は山側の一番奥にあり津波の影響は無く、ただ原発の影響により作物作れず、若い世代は皆近隣の町に出て行き残っているのは年寄り世帯だけになってしまいました。

原発の場所から25キロメートルの近さでありながら避難区域には幸か不幸か指定されず隣町の広野までは避難区域です。
(今はやっと避難が解除されたみたいですが)

現在は壊滅状態の元あった集落は公園になるとかで道路工事がなされてる状況です。

時々墓参りに行くのですが人の姿なく、子供達の声が聞こえる訳でもなくて何とも寂しい限りです。

将来的には消滅してしまうのかもしれませんね。

郷愁の思いもあり書きつらねてしまいましたが、有り難うございました。



Posted by はなゆ at 2016年06月26日 05:11

末続とは天領だったのですか?とすると末続という地名は他から来た姓で末続というのは代官の話があるからそこから来たのか?
興味深い話です、なぜ末続なのかわからなかった


(昔、新妻家の先祖である殿様が、間者であるキキョウという名の腰元の手引きにより敵に矢を放たれ、倒れて亡くなった場所が里芋畑だったと。縁側から崩れ落ちたらしいとの)

そんな言い伝えが残っていたんですか?
まるで時代劇ですね、これは作り話ではないんですね
忍者とかでも女性が出てくるでしょう

落ち武者の伝説ではこういう禁止されている話がタブーが伝わっている、身を隠しているからそういうことがあった、・・・をしてはいけないということがあった。
それは山深く隠れていて交流があまりないからそうした伝説が伝えられ守られてきた
いろいろ外部と交わるとそういう一族意識もなくなってしまうでしょう

南相馬市の鹿島区では栃窪村は山の方の村ですが大谷一族というのがあり大谷(おおがい)という姓が多いです、そういうことが各地の村にあります
新妻一族というのがす末続村に墓地をみたら80パーセントくらいあったのには驚きました栃窪村にしても一割くらいか大谷(おおがい)ですから

末続村は何かそういう地形にあった。何か山と海の狭隘な地域でありだから余り外からの人の出入りが少なく新妻一族が代々継がれてきた。
栃木県の湯西川でも山の奥で落人伝説で有名である。

原発から25キロですか、微妙な地点ですね
鹿島区は30キロ地点です
30キロ内だと原発補償金がもらえる地点です
なかなか地理的にわかりにくいのですがやはり相馬藩の境だったようです
相馬藩の参勤交代で江戸に行くとき末続村の人が出迎えたということはどこかで書いてあったようです
つまり岩城藩から相馬藩に移った人も武士もいたからです

今回も興味深い話、ありがとうごさいました

何か北海道の方が自分の先祖がいたということを書いてきたことてなどあった。
新妻という姓は結構多いですからルーツをたどる人がいるのでしょう。
末続で津波で七人死んだ、駅の前の所だった。
あとは山が多いから助かった、ただ末続でも一部しか見ていないからわからない所があった。末続が何か地形的に変わっているから印象に残っていた。
歴史的にも地形的にも印象に残る場所だった。

メールでコメントが来るのかと見ていたのですが来なかった

それでプログのコメント欄を見てなかったので遅れてしまいました。
また何か言い伝えなどあったら書いてみてください

Posted by 小林 at 2016年07月09日 14:55
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