2016年07月16日

介護で国力も衰退する (老々介護で共倒れが増える)


介護で国力も衰退する


(老々介護で共倒れが増える)


姉と関係していた近くの人が病院に入院しているという。
その夫とあって話したらその人は83才であるが頬がこけてやせて病人のように見えた
前に書いた戦争を経験した95才の人より老けて見えるし顔全体がやせて病人のように見える
その人は別に介護といっても病院に通うくらいだからそれほど辛い介護ではない
施設には入れないというときそれはみんながそうである、それで病院に入院していられるのも助かっている
確かにあの人を見ると自宅ではできない、でもまだ自転車にのれるのだから筋肉は弱っていない、それにしても悪いけどあんな骸骨のような顔になるのも老いの辛さがある。

これから老々介護も増えてきて悲惨な事件も起きている、NHKで介護殺人のことを報道していた。自分も同じ心境だった。死んでくれたら楽になるなと思うことは異常なことではない、介護しているとそうなるのだ。
介護の問題はいろいろあるけど介護は長いということである。自分は二人で十年間であり他の人も7年だとか十年だとか長いことが答えるのである。
癌だと余命一年とかなるから苦しくてもその間我慢すればいいと割り切れるが介護は先が見えないほど長いのである。
その人は認知症の母親を十年介護している、それで脳梗塞で倒れたとき救急車を呼ばないで死んだ方がいいと思ったという心境もわかる。誰でも死んでほしいと思うことがある。それは異常なことでも非情なことでもないのである。十年も介護していたらそうなる。
その人は50才としたそれまで50前から介護しているとしたら余計に辛いとなる。
近くの腰がまがりかけた女性も十年介護しているという、老々介護になると介護する方の負担が大きくなるのだ。
自分も病気なのに介護していた。誰も助けるものがいない、助ける人が一人は犯罪者であり一人は借金を要求するような人だったからかえって負担になった。
人の弱みにつけこんでくるような人だったのである。何の助けもなかったのである。
介護は誰か一人にまかせられる傾向がある。兄弟がいてもそうである。

介護で一番苦しいのは何かという問いに自由がなくなったということを言っていたが同感である。刑務所に入り牢獄につながれたようだというのもそうである。  本当につききりになるから全く自由がなくなる、自分にとってはこのことが一番辛かった。自由気ままに生きてきたから余計にそうだった。
ただ自分の事情としては特別そうして自由に生きられたのはそれだけ家族にしてもらったからだとその時自覚したのである。
つまり自由というのは誰かによって与えられたものなのである。
まず家が金銭的にでも労働でも余裕がないと自由は与えられない、金があってももし自分の家が一人だとむずかしい面があった。二人がいたので自分は自由に旅できたのである。留守する人がいたからである。今は一人だけど何か旅するにも留守する人がいないとなると不安になるのである。
自由というときやはり旅すればホテルであり食事であれ交通であれ世話になる、誰かが働く人がいて自由な旅もできるのである。
普通はみんな働いているからである。


ただ介護自体はいくら懸命にしてもそれ自体が何か社会にとって有益にも思えない
私はこれだけ親の介護しましたよと言ってもそれは親なんだから当然でしょうとなるだけである。
でももし芸術にしても作品をみせてそれが価値あれば社会的に価値あるものとなる。
介護したからと社会的に認められることはないのである。
それで介護というのは相当な社会的損失になるし国力の衰退にもなる
ある人は技術者であり会社で開発を担当していた。50才くらいであり油がのりきっている年齢だけど妻とかの介護をさせられた。それで仕事ができなくなることは社会的損失であり国力の衰退までなる
自分ももし50才で介護させられたら海外旅行できないから何か批評するにも馬鹿なことを言っていたろ
50才で海外旅行して見識が広まったから何かを言うことができる、理解できたから言うことができる、自分の場合は介護になるまでに自由を奪われなかったから良かったのであるだから自分は親のことを責めたりしないし介護でも懸命にしたのである。
でも40とか50とかで介護させられて仕事もできなくなったとかなると後で恨みになることはまちがいない、介護のために親のために人生を奪われたと恨むようになる。
介護が十年ともなると人生の中でその時間が奪われたことになるからだ。

これからは老々介護も増えてくる、そうすると共倒れにもなり介護殺人も増えてくる
施設に入れないとか普通であり団塊の世代が介護されるときもあと十年とかでなる
そうなるともう介護ができない、施設にも入れないとか悲惨な事件が日常的になる。
身寄りがないような人はもう介護されないとか病気になったら自死を覚悟せねばならない自分がそれを経験したから恐怖である。誰も助けてはくれない、同情もされない
病院でも看護師に虐待されても施設で虐待されてもどうにもならないから恐怖である。
結婚しない方がいいと考える若者はその老後い厳しさ予測できないのである。
金があればその金目当てにくるたげである。実際に犯罪にあったからである。
つまり老人をどうみているかというと一般的に財産があればその財産に目をつけられる
それは子供ですらそうなのである。だから介護しないなら子供でも財産を与えないというのもわかる。そういう時代になったのである。
老後とは長生きとはかえって過酷なものとなってゆく
だから一番大事なのは健康だとなる、健康であればなんとかのりきれるが金があっても健康がなくなれば老後は地獄になるのである。健康の価値は何倍にも高くなるのが老後である。

では健康というのはどうして作られるのか?これも若いときからの日々の暮らし積みに長年の間に影響してくる、そして60以後必ず病気がでてくる、60以後は別に健康に注意していた人でもなんらか病気になるのである。
自分は30代で酒も飲まなくなった。そして体力がないのだけど疲れると寝ていたから楽したからこれまで生きられたのだと思う。集団的に生活することができない性格である。
学校にも会社にも適応できないが家族に恵まれたから体力がなくても生きられたとなる。60以後は何であれ人生の総決算のようなものが具体的に否が応でも現れてくるのだ。
それは正にカルマの総決算である。これはさけることができないのである。
要するに自業自得だということである。若い内はたいしたことがないことと思っていてもそれが老後には痛恨の苦いものとなる。若気の至りではすまされなくなるから怖いのである。そのカルマは必ず老後に払わされるのである。

だから「心の青雲」でも何か空手でも体を鍛えているというのには感心する
リハビリでもやはりそうして心がけで回復する人としない人がでてくる
そういう姿勢には共感する、
いづれにしろ介護というのは国力すら衰退させる大きな社会的問題である。
親の介護で人生の時間が奪われるた人は親に感謝しなくなるだろう。
これも大きな問題である。自分は若いときは親戚の人が病気になって助けを求めたとき何もしなかった。自分のしたいことをした。それで良かったと思う。
旅をして良かったと思う。今になると旅すらできないからである。
なにかやりたいことをしないということは必ず人生を後悔する
それが介護などで奪われたらあとで恨むようになるのである。そしたら親子双方でいいものとはならないのである。
でも介護は否応なく課せられることもあり悲劇となるのである。
自分の場合はカルマとして納得したことであり恨みもないしかえって恩返しできたと思っている、でもみんながそうはならない、自分は運が良かっただけだとなる
ただここ十年の苦しみはまさにそうして恵まれた結果としてのカルマを返すために苦しんだのである。
タグ:老々介護
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