2016年08月19日

認知症は記憶できない病気 (料理することが認知症の予防になる)


認知症は記憶できない病気


(料理することが認知症の予防になる)

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文字がどこにあるか一旦見せて隠すと認知症の人は記憶できないからわからない
普通の人でも一文字ならわかるがこれが二文字ABとかなるとわかりにくくなる
そしてABCはなるともう普通の人でも覚えることができない




認知症も本当に何なのかわからない謎である。一番驚いたのは銀行から金をおせなくなったことである。これほど衝撃的なことはなかった。
いつも頭がいいと自慢していたしそういう面はあった。
それが金が下ろせないとなれば完全に無力化したことになる
なぜなら金がどうのうこうのというが金はやはり力をもっている
金があれば人も動かせるのである。人は金に従うのである。すべてではないにしろ金をもっていれば老人になっても無力化はしない、その金をもっていても自由にできない
これほどショックなことがあるだろうか?
一億円もっていも銀行から金を下ろせない、みんな金にこだわり金、金、金で生きているのに金があっても自分で使えないということが一番のショックである。
それが認知症になると起こるのである。

だからこのことから見れば何なのだ、全く馬鹿になってしまったのかというふうに見るし外からも見られる
そして不思議なのはその金を下ろせないということで自分の頭をたたいてく悔しがっていたのである。とをしてもわかろうとしてもわからないからそうなって不満になり自分の頭をたたいていた。
これを考えると自分が銀行から金を下ろせないことを意識している
金を下ろせればいいと思っているができないので不満なのである。
それが怒りにもなる。ではこうなると認知症の人は全面的に馬鹿になったのだろうか?
そうとうもいえないのが不思議なのである。

図のように認知症は記憶できない病気である。
実験として図の中にAを見せる、次に隠してどこにあったか指摘させる、たいがい一つの文字ならわかるだろう。でも認知症の人はなかなかこういうことが相当に苦手になる
まず文字が二つAとBになったらほとんどどこにあったか記憶できない、直前の記憶ができないことが認知症の特徴なのである。
普通の正常の人でもまずもじがABCとなると図の中に配置したらわからなくなる
このことから料理することは認知症の予防になる
なぜなら料理することは十種類くらいのものを使うからそれを覚えていないとできない
特に冷蔵庫の中にどこに何があるかを知っていないとできない
料理は明らかに頭脳を働かせて整理する訓練に向いているのだ
種類が多いから冷蔵庫でも中にどこに入っているか自分は忘れるのである。
もし料理することだけを専門にしていればそういうことはない、いろいろやることがあるから必ず自分は忘れるのである。
人間は一つのことにAという文字には注意して覚えるがそれがABとなると覚えにくくなる
二つ三つとなると覚えにくくなるのである。

認知症が記憶できない病気というとき良く財布とか大事なものを隠すが隠したところが記憶から消えるのでパニックになる、それで泣いて訴えたり探せと狂気のようになるのである、何かその時感情が高ぶり狂気的になるのが認知症の特徴である。
だから側にいる人は常にその隠した場所を知っていてないというときここにあるよと安心させるのがいい、だから狭い部屋で管理しやすいのがいいのである。
なぜなら二階に自分の着るものを置いたりする余計に自分でかたつげていてもないとなりパニックになり狂気的になるからである。盗まれたとか異常に感情的になり激怒したりするからである。良く入れ歯をなくすので苦労したのである。
認知症はまた整理できない病気である。同じ種類のものとか同系統のものとかを区別して整理できないのである。

認知症の人がなぜ暴力的になるのか?それは今までできたことができなくなる不満が大きいためである。それから今までつきあっていた人ともつきあうことが断られたりいろいろな不満が大きくなる、するとその不満が一番身近な家族にぶつけられるのである。
施設だと介護士とかの暴力になる、そういう簡単なことができなくなっても以前としてプライドをもっている、自分はこの家で何々してきたとかやはり自慢している、自分は頭が良かったとかも言いプライドはなくならないのである。
確かに簡単なことができないわからないにしても人間としてその人は馬鹿になり人間でなくなったのかと思ったこともあった。
それが最初の驚愕だった。でも人間としてわかっていることもある、人生経験から何か諭すようなことも言うのである。

ともかく認知症の人を扱うのが大変なのは家族だったら自分の家族だったらこの家を作った人だとなると馬鹿として扱えない、自分はいろいろやってきたというときプライドをもつとき否定できない、施設だったらそういうことはないからそんなプライドをいちいち取り上げないだろう。頭から馬鹿にしたりするだろう、する不満になりそれが怒りとなり暴力ともなる、ここが一番やっかいなのである。
功罪はあるにしても功績があるからそのプライドを否定することはできないのである。

いづれにしろ認知症の予防というとき記憶できない病気だというとき料理などしていないと認知症になりやすいだろう。一人は全く料理もなにもしなくなっていた。
一人は93さいころまで料理していたのである。趣味もなにもないが料理していたので認知症にならなっかったのかもしれない、ただ95歳頃から寝たきりになり認知症になっていたこのころになるとみんな認知症になるからこれはとやかく言えないのである。

認知症の症状には脳のメカニズムが関係しているのだろう、直前のものが記憶できないということは海馬が障害を起こしている、でも昔のことは鮮明に覚えているので千回も話しつづけて聞いているのが嫌になる。
過去に生きているというとき自分は過去に何々をしたとそのしたことを認めてもらえたいのである。戦争で苦労したらその戦争で苦労したことを認めてもらいたいのである。
そこにプライドがあるからである。だからその人が迷惑ばかりかけていたりしたら認知症になったら介護するのもいやになるだろう。何もしてくれない何も残さなかったとか世話しなかったとかなればそうなる。
迷惑をかけつづけて最後にまた大迷惑をかけただけだとなってしまう。
自分の場合は特別良くしてもらったから介護したし今になると恩返しできて良かったなと思う、そうでないと何も恩返しができなくて後悔したからである。

介護というとき個々の家族の事情が深くかかわっている、兄弟でも良くされたものが介護しろとなるのはそのためである。ただ介護は家族だけでは負担になる。
自分も十年間して疲れたのである。何か相当に介護は精神的にも肉体的にも消耗するのである。ただ自分はやりたいことをやらせてもらったから不満はないのである。
親子関係でも家族でもいろいろだから介護の事情は違ってくるからいちがいに言えないのである。
ただつくづく人間は日頃の行いが大事だなと本当に思う
自分の所に来た親戚の人は事業に失敗していたのだから何も助けることはできない、多少はしてもただ頭が借金のことで一杯なのだから何もできないというより脅迫されたから怖い、これも日頃の行いが悪かったから肝心な時に何もできない、かえって苦しめる結果になったのである。

原発事故でも仮設で何もすることがなくギャンブル、パチンコばかりしている人もいたし何か会津で家具の修理の仕事とか他にも農業しているとか日頃していることをしていた人もいる。大工なども仕事としてどこでもできる
何かこうした緊急事態のときでも日頃していたことが役にたち復興になる
何かあったからといって人は何か特別なことができるわけでもない
日頃していたことしかできないと思う、そのことが役にたつのである。
だから日頃の生活が大事なのだけどそれがあまりもに平凡だから大事だとも思わない
人間の一生でも何か特別なことは人生に一回とか二回くらいしかない、あとは平凡なのである。青春時代は特別なことが起こるがあとは何か人間は平凡なのである。
家庭生活でもそうだし何か特別なことはないのである。

ともかく認知症の対処も家族で違ってくるが認知症特有の症状は共通しているところがある。直前のものが記憶できない病気ということで共通している
その他はいろいろあっても全部が異常をきたしているものでもないようにも見える
これも個々に違っているからわからない、でも馬鹿になっか、痴呆になった、もう人間として扱えないとまではならないと思う。
ただ症状があまりに悪化するとそうなるかもしれない、なんか最後に正常にもどるということを書いたけど時々認知症の人が正常にもどる正気にもどるというのもこれは経験しているから本当である。これも不思議なことだったなとつくづく思うのである。

posted by 老鶯 at 16:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 老人福祉医療問題
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