2016年08月21日

過酷な人生は何のために 苦しめば相手の苦しみに同情する


過酷な人生は何のために


苦しめば相手の苦しみに同情する


人は誰しも母から生まれとき母の苦しみを通じて生れる
苦しみを通してすでにこの世に生れている
その後も親の生活の苦しみがあり子は育つ
戦争で苦しみ生き残りそして自分が育てられた
若いときすでに母は糸取りで十年働き苦労してた。
戦前はみんな貧乏であり苦しみ生きていた。
食べるものも粗末であった。沢庵と味噌汁が主でありあとは梅干しである。
そんなもので労働に耐えていた。
人の一生は結局苦しみなのだ。それから逃れることはできない

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし 家康

子供の頃から苦労していたからこうなった。人間に苦労は尽きることはないのだ
なぜなら人間は苦の存在だというとき病気にならない人がいないからである。
死もまねがれないから死なない限り苦から逃れることができない
苦というとき貧乏も苦だが病気は誰にでもなる、金持ちでも病人になったらただ苦があるだけなのである。
億万長者でも寝たきりになったりしたらその金も何の力もない、ただ歩けたらどれだけ幸せだろうとなるだけである。

ただ人間は人の苦はわからないのである。貧乏を経験していない人は貧乏がどういうものかわからない、実際今の時代の貧乏は戦後まもなくとか戦前の貧乏から比べると貧乏とも言えない、時々貧乏を話題にするけどそれはみんな貧乏を知らないから珍しいものとして貧乏を話題にする、だから何か極端であり実際で学生の貧乏を話題にしたのがやらせだったのであ。実際はぜいたくしていたのである。
現代の貧乏は何かそういうことが多いからそのままに話題にしても特にマスコミで話題にしても信じられないとなる
今では生活保護者でも食べ物だけはぜいたくしている、自分よりぜいたくしている、サシミを生きのいい店で買っている、スーパーでは買わないのである。
自分の父親は明治生れで貧乏のままに終わった、最後の方で豊かになったが病気になりサシミを食えるようになったが食いたくないと言って死んだ
病気になったらどんなうまいものでも食欲がないのだから食べたくないとなる

自分は介護のとき病気でありその病気のとき借金だとなんだと犯罪にあったり苦しめられたの辛かった。でも病気でもやはり責められたり苦しめられたりすることがある

「病」としては、大別して「瘡(かさ=梅毒)」と「労咳(肺結核)」でしたが、働きが良かった(客を大勢取った)遊女は、その妓楼の別宅で養生させてもらえましたが、大部分の遊女は、微熱があろうと、喀血をしながらも、多くの客を取らされました。
そして、いよいよ「ダメだな」となると、妓楼内の日当たりも良くない、薄暗い納戸のようなところへ閉じ込められ、食事もほとんど与えられずに遊女の「死」を待つだけでした。
遊女が死ぬと、腰巻一枚の丸裸にして、菰(こも)に包んで銭200文を付けて「投げ込み寺」へ。
寺では、「総墓」と呼ばれる大きな穴に投げ込み、簡単なお経を読んで供養を済ませました。
従って、小石川養生所などはもとより、医者にかかることさえできませんでした。

遊女も借金のカタにとられてこんなに悲惨に死んだのかとなる、借金というのは江戸時代でも過酷であり江戸時代の暗黒面をここにみる。
今だったら自分でも病気ということが免罪符になる、生活保護も軽いものでも精神が病んだとでも受けられるし、身体の障害者でも特別かえって保護されて同情される
それが特権までなっている。それが現代の恵まれている点である。
自分も常に介護とか病気で思ったことが自分は病気なのになぜこんなに責められるのかということだった
それでこれは自分より悲惨だったなと同情した。結局苦しむことはそうした過去の人でも苦しんだ人に同情することになる、苦しむことで他者にを同情するということはある。

ある女性と話したら貧乏な人がいるんですよと話したらそんな話したくない、そんな人はいないよと言っていた、その人は貧乏な人と接しないから自分が貧乏を経験しないからそう言っているのだ。自分も前はそうだった。自分が苦しんだ結果そういう人の苦しみがわかり同情するようになった。
人間の苦しみはその人が苦しんでみないかぎりわからないのである。
なぜそういう遊女に同情がなかったのか?
当時はやはりみんなが貧乏であり同情しても借金も払えないからそうなった。
まだ逆にそういう過酷な非情な目にあいつづけると人間は非情になる
全く同情しない人間にもなる、心が歪んでしまうい冷酷になる
だから人間あまりにも過酷なことには苦しみには耐えられないのである。


ともかく喀血しながら客をとるというのは悲惨である。それも同情されないのである。
自分もこれよりは楽だったとなるが同情されないということでは同じだった。
だからどうしても比べるのもどうかと思うが津波ではない原発避難者は確かに部屋は狭いけど楽だなと見えるのである。
江戸時代と現代は比べようがないにしろこんな悲惨なことが借金のためにあった
だいたい今の借金している人は何か病気のためとかは少ないだろう
見栄をはる、贅沢をする、ギャンブルするそれがやめられなくて借金する人も多い
そして自分が苦しいとき借金で責めてくる、そんな人が何なのだとなる
原発避難者もギャンブルとパチンコ屋通いになったのそうである。
現代の苦しみは個々に事情があってもそれほどの苦しみとは言えない場合が多いのである
江戸時代は病気になってもまともに医者にかかれる人は少ない、そして医療も発達していないからまともな医療は受けられないから病気になったら死んでゆくのが多いとなる
一方逆に現代は医療過剰で胃ろうまでして胃に穴あけてまで栄養をやり活かしている
このことも実際は地獄的な苦痛なのである。苦しみを与えるために生かしているということにもなっている、これもまた成す術もなく苦しんで死んだ者が多い江戸時代と比べると奇妙だとなる。同じように苦しみを与えていることは間違いないからである。
現代の医療が作り出した苦しみなのである。

いづれにしろ他人の苦しみがわるというとき自分も苦しんでみないとわからない、貧乏な人の苦労をわかるのには自らも貧乏にならないとわからない
現代では本当の貧乏がないから装う貧乏になっているのである。
現代人はそれだけ贅沢なことが当たり前でありそれになれているからちょっとした不便でも貧乏でも耐えられないとなる、貧乏といっても昔からすると相当に贅沢しているからである。

自分はなぜ病気なのに責められたのか、その弱さにつけこまれたのか、そのことが憤りになっている、でも江戸時代の遊女はどんな気持ちで死んでいったのだろうか?
病気でも同情されない、ただ借金を払うために物ののように使われて死んでゆく
江戸時代は義理人情の世界というけどここに一番の暗黒があった。
ここには人情がなかったのかとなる、ただそれぞれの事情がありその当時だと白いご飯が食べられるといい着物が着られるとか当時の価値観ではあった。何かしらそうした地獄でもその当時にしたら人間的なものがあり救いはあったとなる
今は贅沢するために借金してそれで同情しろというのは無理である。ただ現代ではそういう人が多いのである。
これとにたことは現代でも貧乏な国で起きている
目をおおうようなことをdarkness duaのプログで話題にしている、だから昔あったことは今もやはりあることはある。ただその事情は違っている

「なぜこんなに苦しんで死ぬだけなのか」

その不条理に泣いて死んでいった。その人生の過酷さは何であったのかとなる。そこになんらかの慰めがあったのかとなる、その恨みは相当に深いと思うからだ。




タグ:過酷な人生
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