2016年08月21日

葛尾村から三春から田村市(都路村)へー秋の短歌 (地理は地図を見てもわからない)


葛尾村から三春から田村市(都路村)へー秋の短歌


(地理は地図を見てもわからない)

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葛尾村あわれ遠くも古き碑の並びて語る秋の夕暮

三春へと葛尾村より我が行くやその道遠く秋の日暮れぬ

この辺りいづれや遠く山の道月見草咲き夕暮れ迫る

三春への道のり遠し道の辺の花もあわれや旅人去りぬ

葛尾村我が父の暮らしはいかに丁稚奉公に新山に出る

葛尾村三春浪江も遠しかな生活もあわれ秋の日暮れぬ

高瀬川上りて遠く落合や秋深まりぬ葛尾村かな

双葉より都路遠し坂のぼり我が着きにしも何かありなむ

五万石三春の城跡我が立てば四方の山々かなた相馬かな

葛尾村古き屋ありぬ養蚕に暮らしをたつや代々の墓

行司滝相馬と三春の境かなその謂れ知り秋深まりぬ

山中に様々な碑の古りにけり昔の暮らし秋の日暮れぬ

隣村都路村やその名にそ華やぐも古道とあり秋深まりぬ

船引と昔の町の名の消えぬ田村市となる知らざりしかな

船引に一夜泊まれる電車行く音のひびきし秋の夕暮

飯館村芒なびきて誰か住むその土地広く知られざるかな




地図見ると実際の感覚とは違う、葛尾村は何か広い感じがしたのである。でも実際はかなり狭い領域だった。飯館村はもともと広い感じだった。
川俣村も意外と狭い、でも人口が多いのは絹織物の里として栄えたからである。
福島市から電車まで通っていた。
双葉とか大熊も土地としては狭い、でも町として維持できたのは原発があったからである浪江町は土地が山奥の津島まで伸びているから変則的なのである。
津島は開墾に入った地域であり戦後のことである、だからあそこで中国人の嫁が都会に出たいと鉈で夫を襲ったということがあった。今は避難してどうなったのか不思議だとなる海側は何か狭い感じである。南相馬市は広いのは原町市がもともと入っていたからであるここに雲雀が原がありもともと広い土地だったのである。
田村市は船引町まで合併していたのである。船引は鉄道も通っていて大きな街がある。
だからそこも合併したので4万くらいになっている
都路村には双葉から自転車で行ったが坂がありようやく越えてつく
ただ都路村は葛尾村の隣である。境を成しているのは高瀬川なのである。
行司滝というのはその境の謂れが伝えている
ただここには行ったことがない、かなり川でも奥になるのだろう。

葛尾村というとき広いと思っていた。父親の出身地は葛尾村の小出屋であり
あそこも相当不便な所であり場所としては広い場所がないので窮屈なのである。
その実家のような家は今はない、そこにも一つの物語となってしまった。
あそこはでも三春までバスが通っていたから浪江の街中に行くより三春の方が近かった
江戸時代でも三春が近かったので葛尾大尽と呼ばれた製鉄で財を成した人が三春藩の殿様を呼んだとか言うのはそのためだろう。
要するに葛尾村が狭いというとき平地も少ない、平地があれば田にしていたが他は山の暮らしであり馬を飼っていたり炭焼きしたり木材とかを売り生活していた。
相馬野馬追いでの騎馬武者の草鞋を作っていたというのもそのためである。

この草鞋作りは金を稼ぐには良かった、栃窪村の上萱(うえがや)でも草鞋作りしていたのである。靴がない時代は草鞋だから草鞋は一日くらいでも履き替えるから売れるとなる、その草鞋は必要なくても義理で生活の足しにと買っていた人もいる
福島市の草鞋祭りもそういうものに由来している。
上萱も意外と古い、明治時代から家があったとか古いのである。茅葺きの家が何軒が残っていたとき何回も行っている、つまり大原村から八木沢へは辺鄙な不便な場所だけど開墾して入植した人がいた。バラ坂とは何なのだろうと思ったらそこが原発事故で家が避難して茨の原になっていた。バラ坂とは茨(いばら)のことだったのである。
それからたいがい古い農家は戦前まで養蚕しているからそれは兜作りであり二階が独特の形をしている、通気孔をもうけていたりとわかる。山の中でも養蚕していればそれなりに暮らしが成り立ったということはある。

ともかくこの辺が原発事故の被害にあり避難区域になった。
この辺は何回も自転車で行った所だがそれでも地理はわかりにくい
実際の感覚とは相当に違うのである。だから地図見ただけでは地理はわからない
遠さの感覚とか地形とか広さの感覚でも実感しにくいのである。
相馬藩は大熊とか葛尾村までありつくづく狭いようで六万石でも広いのである。
だからわからない領域がまだある、行司滝などまだ行っていないのである。

行 司 ヶ 滝

このプログの説明だと都路村の古道村まで相馬藩であり境争いがあった。三春藩の侍が切腹までしていたのである。境になっている所は必ず何か争いがありそうした歴史が残されている、ここのプログは面白いようだ。

ともかく人間の暮らしというときこうした山の村でもそこに暮らしている重みが違う。
こういうところにも人が代々暮らしているということが感慨深いのである。
確かに不便なのだけど都会だったら一軒一軒の暮らしの重みがないのである。
つまり今になると良くこんな山の中で暮らして来たなと思うのである。
だから東京などの家とかと比べると一軒の家の重みは百倍もあるだろう
それで浪江の赤生木にはもう人が住まないと一軒一軒の家を記録に残そうとしているのである。ただあそこは開墾に入った人が多いようである。

自分にとってこういう村が失われることが今になると大損失である。そんな限界集落のようなものは金がかかるからいらないと都会の人が言う時、それはあまりにも偏った見方なのである。人間の暮らしが本来どういうものなのか都会の人は経済的なもの、効率として見ないからである。ただそれも一理ある、なぜならもともとそういう村は自給自足であり都会の人に頼っていなかったからである。そこに誇りがあった。
今は原発でわかるように便利な生活のためにインフラでも何でも税金でまかなっているからそうなる。
結局もし田舎だけで都会の人に頼らずに暮らしていたらもっと生活の重みがあったともなる、もちろんそうなると貧乏で嫌だとなっていて街に出てきた人もいるし自分の父親のように酒屋に丁稚奉公に出された人もいるからそこで暮らすことは厳しいのである。
ただ貧しい,厳しい生活ということがその生活にさらに重みを加えていたともなる
田舎でも街中より離れた農家などには生活の重みを感じるけど街中だと感じない
家が密集していると一軒一軒の家の重みかなくなる、まして都会となると余計にそうなる農家だとそこが旧家だったりする城のようにさえ見えるからである。

いづれにしろ地理の感覚は地図を見てもわからない、実地に歩いてみないとわからないのである。だから葛尾村が狭い領域だということが意外だったのである。葛尾村には古い碑がある。落合には明歴と元禄の碑があったことを紹介したが明暦となると相馬藩内では本当に少ないのである。
また秋になったら涼しいからロードで行ってみたい、ロードだと倍速になるからだ。
葛尾村も避難解除にはなっているがあそこは辺鄙だからもどるとなると他より苦しいとなる。
この辺が都会の人には感じないがそういう代々の生活が奪われたとかその被害は深刻だったのである。そういうふうには都会の人は見ない、この際限界集落は消えた方がいいとかみる、それは経済的効率だけから見るからである。

生活の重みとか人間の暮らしが本来どういうものかとか見ればその見方は違ってくるのである。ただそういうことはそこに住んでいる人も感じないということもある
かえって補償金もらって都会で便利な生活したいとなる、そういうふうに田舎でも暮らしていたら当然この際補償金で都会で暮らそうと若い人は特になってしまったのである。
要するにその人の生きる価値観の問題がある、でもそんなことより普通は便利な生活がしたいとなるのである。自分でもどうしても小さい町でも街中でしか暮らせないのが現実なのである。車がないから近くにスーパーがないと暮らせないからである。
自分はまだ一万くらいの町でも我慢できる、それでも贅沢は今でもできるのである。
通販とかインターネットが発達したから補えるということである。
それもまた矛盾であり便利だからこそ田舎に暮らせるともなる
とにかく原発事故ではいろいろなことが問われたのである。むずかしく言えば実存的問題というか哲学的問題としても問われたのである。

高瀬川から葛尾村まで春の短歌二十首

葛尾(かつろう)村から三春へ(秋の暮)
(残された一つの物語)








タグ:葛尾村
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