喜多方市(5世紀)の前方後円墳「灰塚山古墳」から、
副葬品の大刀(たち)や矢尻など多量の鉄製品や青銅の鏡が出土
(福島県の古代の歴史の謎)
喜多方市慶徳町にある古墳時代中期(5世紀)に築造された大型の前方後円墳「灰塚山古墳」から、副葬品の大刀(たち)や矢尻など多量の鉄製品や青銅の鏡が出土していたことが31日、分かった。同時期の古墳から大量の鉄製品が出土するのは東北初という。会津を治めた豪族の墓と推定され、専門家は「東北の古代史を塗り替える貴重な発見」と話す。
古代半島の南部で我々の祖先(倭人)が鉄鉱石を採掘し、精錬してインゴットにして
日本へ運んでいた
その鍛冶・海人である倭人の集団が宇佐八幡宮のベースとなった
白村江で日本が敗れ、半島から撤退したことにより日本は「鉄鉱石利権を失い、西日本では
砂鉄を用いたタタラ吹きによる製鉄がメインになった
5世紀)の前方後円墳「灰塚山古墳」で
391年から白村江の戦いまで、半島を支配したのは日本だから当然だわ。
しかもスサノヲは、韓郷(からくに)に金銀有り、子供たちに船がなければ困るなぁ、と述べて
資源の開発等を示唆している。
2世紀頃の釜山市の萊城(ネソン)遺跡では出土土器の94%が北部九州系。
つまり倭人が海を渡って鉄の採掘をしていた。
139 :名無しさん@1周年:2016/09/08(木) 04:01:06.50 ID:eGMD0pSx0
三韓征伐引き上げの際の
九州か百済の武具や馬具の鍛冶屋を
機内に連れ帰ったのが始まりだろ
青銅は紀元前1世紀頃から日本で作られるようになり、
製鉄は弥生時代後期後半(1 - 3世紀)頃から北部九州のカラカミ遺跡(壱岐市)や
備後の小丸遺跡(三原市)で開始され、
それから時代が下り出雲地方や吉備でも製鉄が行われるようになった。
日本の製鉄は芦原から始まったから量産難しかっただろうしね
有田焼を筆頭に日本の陶芸の多くは技術を持った生身の人間が渡来して製作したもの、近世は
連れてきた日本の記録や連れて来られた陶工の家系が残っているからありのままにされている。
鉄製品の原料などどこにでもあるものだ、なかったのは製鉄、加工の技術。
技術は海を越えてやって来ない。
技術を保有した人間がやってきて日本で鉄製品を製造していたのだ。
稲作も漢字も同じ、先祖の祀り方も海を越えて伝わるものではない。
そういう生活習慣の人々が移り住んだということだ。
須恵器は現代の焼き物小屋と同じように閉じた環境で焼かれ、
鉄成分が還元して黒っぽくなる。
製鉄は更にその先の技術である。
このように最低限、温度と空気を調整できるまでは
この被葬者は四道将軍の北陸道将軍の大彦命だろうか?それとも東海道将軍で大彦命の息子の武渟川別命だろうか?
山形人の井上ひさしは「会津は東北ではない」と断言してる。
昔から中央政権と直結した独立国のような地域で、
平安の仏教文化も関東を飛び越え会津から東日本に広まってる。
東北の蝦夷文化とは別系統の文化が会津にあったということでしょ。
律令国家を広げるため、北陸、東海、西道、丹波に派遣された四道将軍のうち、
大彦命と武渟川別命という二人の将軍が、各地を平定した後、
出会って定着したので「会津」という地名になった。
もともと記紀神話に由来する地名なんだよね。
ヤマト政権は韓人王朝だからな
倭人や蝦夷の猿どもの大部分を支配していたのだろう
韓半島の先進文明の政権なら支配圏は会津どころか青森まで到達していたかもしれぬ
既に会津の大塚山古墳で三角縁神獣鏡(卑弥呼の鏡)が出土してるね。
大塚山古墳は古墳時代前期のもので東北地方最古だから、
今回の灰塚山古墳はそれ以降のもの。
新羅系の物部氏は、蘇我氏に敗れたあと、製鉄技術と武器、道具の製作技術を
陸奥ヒタカミノクニ(日高見国)に持ち込み、大和朝廷に対抗する為にエミシ勢力に、
弩(イシユミ)などの武器を提供したとされる。
大和朝廷の「蝦夷征伐」の目的の一つは、物部勢力、新羅勢力の根絶という側面もあったのである。
わざわざ半島に攻めて行ったのは、鉄の供給を確保するためだったのか?
大和朝廷以前から頻繁に攻めてるみたいだし
日本で鉄器が急に普及したのは南半島を統治し鉄鉱石を豊富に確保できた時期
それまでは原料が入手困難だったので鉄器が普及しなかった
製鉄は弥生時代後期後半(1 - 3世紀)頃から北部九州のカラカミ遺跡(壱岐市)や
備後の小丸遺跡(三原市)で開始され、
この議論を深めると地名だと北部九州のカラカミ遺跡(壱岐市)とあるが南相馬市の鹿島区にも唐神(からかみ)という地名がある。これは九州が離れていても共通したものであるカラカミという地名は他にもあるだろう。なぜなら地名は古代につけられたのが多いからだ。
山形人の井上ひさしは「会津は東北ではない」と断言してる。
昔から中央政権と直結した独立国のような地域で、
平安の仏教文化も関東を飛び越え会津から東日本に広まってる。
東北の蝦夷文化とは別系統の文化が会津にあったということでしょ。
これも万葉集の歌に出ているけど
会津嶺(あいづね)の 国をさ遠(どお)み 逢はなはば
偲(しの)ひにせもと 紐結ばさね
〜作者未詳 『万葉集』 巻14-3426
会津は一つの別な国だったのである。防人に出されたのは福島県までである。また会津には平安時代の仏教の寺が多い
奈良時代に生まれた徳一は、南都興福寺で学んだあと20歳の若さで都を離れ、地方で布教活動をします。そして行きついた先が会津で、大同元 (806)年に磐梯山のふもとに慧日寺を建立します
会津の歴史は東北でも独自に早くから発展した地域だとなる。会津は水がいいので米作りに適していたということもその独自の発展の源にもなったともある。
三角縁神獣鏡である。「卑弥呼の鏡」と通称されることの多いこの鏡は、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられ、3世紀から4世紀にかけて畿内に成立した古代国家の勢力範囲を考えるうえで重要な遺物と考えられる。ちなみに会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である。鏡はほかに南棺から変形四獣鏡、北棺から捩文鏡が検出されている。また、環頭大刀は、福岡市若八幡神社古墳出土の大刀に類似している。
ここに吉備が関係している、吉備も製鉄では有名である。
真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ
そして吉備となるとこれまでみちのくの真野の草原(かやはら)で考察したようにこの歌はももともと吉備と深い関係にあった。
吉備津神社の社伝に、中山の麓に茅葺宮を営み、吉備津彦神を加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)が祀ったのが神社の起こりという事で、加夜臣奈留美命(かやのおみなるみみこと)とは、飛鳥の神名備に坐せた、加夜奈流美(かやなるみのこと)ことで、この賀陽氏の始祖神です。吉備津神社の主祭神は、大吉備津彦命ら八柱で、二柱は賀陽氏の祭祀神で、他は吉備臣の先祖とされる孝霊天皇の子神。
この「温羅(うら)伝説」の温羅こそ、「吉備伽耶王国」という巨大勢力を代表する人物で、吉備賀陽氏自身であり「温羅(うら)伝説」は、古代「吉備伽耶王国」の始祖伝承を伝えた話
後に、百済勢力が進出してきて吉備津彦と争うこととなる。
みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎
(かやのおみなるみみこと)は真野の茅原-草原(かやはら)の伽耶に通じている
そして真野の草原を万葉集に残した笠女郎(かさのいらつめ)の父親が吉備国の出身であり伽耶の出だともされている、何かこうしてパズルのようにつなぎあわせると真野の草原の謎が解けてくる
つまり会津でもそうだが福島県の浜通りでも早い時期から産鉄族が移動してきていた。
最近自分が考察した、ツノガノアラシトのツノという地名がついているのが小高に角部として残っているし津神社とかはツノミヤ神社であり相馬市の松川浦も津神社もツノミツ神社でありツノガノアラシト系統なのである
ヤマト政権は韓人王朝だからな
倭人や蝦夷の猿どもの大部分を支配していたのだろう
韓半島の先進文明の政権なら支配圏は会津どころか青森まで到達していたかもしれぬ
津軽(つがる)もツノガノアラシトとして考察した。ツガルはツノガがなまり変形したものだからである。ツノガノアラシトの系統が東北の蝦夷と言われた地域に早くから広がっていたのである。それは製鉄技術をもって蝦夷の地に来たのである。
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新羅系の物部氏は、蘇我氏に敗れたあと、製鉄技術と武器、道具の製作技術を
陸奥ヒタカミノクニ(日高見国)に持ち込み、大和朝廷に対抗する為にエミシ勢力に、
弩(イシユミ)などの武器を提供したとされる。
大和朝廷の「蝦夷征伐」の目的の一つは、物部勢力、新羅勢力の根絶という側面もあったのである。
物部氏が日本を建国した最初の大氏族とされる、だから日本全国に物部氏にまつわるものが多いのである。この辺の桜井古墳も物部氏が作ったとかされるし地名も物部氏に由来するとされるものが多い。明らかにこの辺は物部氏が支配していた。
この物部氏はやがて大和朝廷に逆らい対抗するようになったのである。
なぜ蝦夷が強大であったのかは物部氏がいたからなのである。
その物部氏に渡来系の伽耶の国の人が製鉄技術をもっていたツノガノアラシト系統が合体したのである。
坂上田村麻呂の先祖の出自も同じ伽耶。金海金氏首露王は伽耶国始祖王。
坂上田村麻呂とアテルイは出身国が同じ伽耶たったのだろう、だから田村麻呂はアテルイの助命を嘆願した。
八槻と名付ける由来は、景行天皇の治世、日本武尊が東国の夷(えみし)を征伐しようとして、この地に来て、八目の鏑矢で賊を射て倒し、その矢が落ちたところを矢着(やつき)というようになったことによる。八槻には役所がある。神亀三(七二六)年、表記を八槻と改めた。
また、古老は次のように言う。昔、この地に八人の土知朱(つちぐも)が居た。一を黒鷲、二を神衣媛、三を草野灰、四を保保吉灰、五を阿邪尓那媛、六を栲猪、七を神石萱(かむいしかや)、八を狭磯名という。それぞれに一族があり、八ヶ所の岩屋に住んでいた。この八ヶ所は皆、要害の地であった。だから皇命に従わなかった。国造(くにのみやつこ、律令施行以前の時代、朝廷から一国の長官に任ぜられた現地の豪族)の磐城彦(イワキヒコ)が敗走した後は、人々を奪い去る事が止まなかった。景行天皇は日本武尊に命じて土知朱を征伐させた。土知朱は力を合わせて防戦した。また津軽の蝦夷と共謀し、多くの鹿や猪を狩る強弓を石の城柵に連ねて張り、官軍を射た
神石萱)かむいしかや)のかやは伽耶に由来するのだろう。磐城彦(イワキヒコ)とは今の磐城からでている、そしてなぜ津軽がでてるのかも不思議だとなる、そこはかなり棚倉から福島県からして遠いからである。つまり津軽はツガルでありツノガノアラシト系統が土着していたからだとなる、それが蝦夷となり大和朝廷に抵抗したのである。
その背景には日本で新羅系統とか伽耶系統とか百済系統の渡来人が入り交じり大和朝廷側についたり反抗したりしたために複雑になっている。
蝦夷とはだからそうした渡来系と物部氏がそして原住民などが合体した連合軍だったのである。だからこそ手ごわいものとなったのである。
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日本の製鉄は芦原から始まったから量産難しかっただろうしね
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日本は葦原瑞穂の国だからそうなった。この意味するところはわかりにくいが葦原は萱原にも通じている、萱というのが伽耶国に由来でないとしても何か製鉄と関係していてカヤと名付けられたのかもしれない、全国で製鉄に由来する関する地名が膨大だからである。つまり萱原は鉄のとれる所として知られていた。それは奈良にも知られていて笠女郎が歌に残したのである。現実にそうした大きな製鉄遺跡がここから発見されているからであるでもそこでは軍事用の刀とかではなく仏教に関するものが多かったということは何なのか?唐神(からかみ)とあるごとくそれは仏教の仏のことである。仏教の用具も重に作っていたのかとなる
須恵器は現代の焼き物小屋と同じように閉じた環境で焼かれ、
鉄成分が還元して黒っぽくなる。
製鉄は更にその先の技術である。
このように最低限、温度と空気を調整できるまでは
末続駅から新妻氏のことをことを考察して末続も末(すえ)は陶(すえ)であり須恵器でありこの由来は出雲に神社があり出雲から全国に広がった。つまり浜通りは砂鉄がとれたことで製鉄があった。会津もまた早い時期から製鉄が行われていたのである。
いづれにしろ会津でもそうだが福島県は早い時期から製鉄が渡来人などがわたってきて成されていた。それで今回喜多方市の古墳から製鉄に関するものが出たということは不思議なことではない、会津はそれだけ歴史が古いのである。
こうして全国レベルで議論すると何か歴史の謎がパズルを合わせるように解かれてゆく
そこにインターネットを利用する意義がある、古代関係とかは相当に詳しいからキーワードで関連のものを調べられるからである。
これが図書館などで調べようとする大変なことになりも時間がないからできない。
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