2016年09月10日

(秋の蝉)南相馬市原町の市街から高倉ー押釜を回り帰る (高倉村では紙漉きが行われていた)


(秋の蝉)南相馬市原町区の市街から高倉ー押釜を回り帰る


(高倉村では紙漉きが行われていた)

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綿津見神社


草茫々刈る人老いて夏の暮

草うもる高倉の墓地夏の暮

流れ落つ清水を沢蟹這いのぼる

高倉や清水にうたる蟹一匹

夏草に馬頭観世音旅の人

秋の蝉鳴きて淋しや旅の人


高倉の街より離れあわれかな秋の蝉なく声ひびき暮る

バス停の目印とあれ歩みつつ秋の蝉なき夕暮るるかな

四方より蝉鳴く声のひびきつつ我が歩むかな秋の日暮れぬ

押釜と奥にしあれや古き墓地野馬追いにいず郷士棲めるも

紙漉きを営めると昔水清し高倉村や秋となるかな




今日は高倉から押釜回り帰ってきた。帰ると7時すきているから暗くなる
前は介護していたから常に早く帰らねばならないとなるからこの辺の近くすら行けなかった。今はいつ帰ってもいいから余裕がある。

高倉の農家の人は草刈りしていた。辺りは草茫々である。若い夫婦はここを出て帰らないという、何か市街の方に出たのではなく、南相馬市を出たらしい、原町でもろくな会社がないからだとか言っていた。
姑と一緒にいるのも嫌だったしこれ幸いと出て行ったとかも言っている
あそことても田んぼにできる場所ではないだろう。
あそこから飯館村の長泥(ながとろ)に出るがそこは帰還困難区域に指定されているから入ることはできない、高倉ダムの方にでる、良く前は行っていたがここにも十年間くらい行っていないのである。
高倉の歴史は明治以降開墾に入った地域かもしれない、綿津見神社があるとてしてもその由来が良くわからない、月山大仏とか石碑にあった。妙見の徴も屋根にあったから明治以降かもしれない、明治以降武士が開墾に入った地域かもしれない

高倉村からは野馬追いに4騎出ていた。押釜村は14騎だからなぜかここがそんなに多いのかとなる、

産馬、養蚕、抄紙の三事は組合村の業なり、紙は押釜村ヨ推し十八戸あり、高倉村ヨ最とす・・と大須賀巡村雑記に記されている

紙を梳くのにいい川があり水があるから紙漉き、紙作りがあって生活が成り立っていた。石神村にも紙漉きをしていた家があった。これは意外と忘れられているのである。
相馬市の山上にも紙漉き沢という地名があるから紙漉きが行われていた。
紙漉きが山の村の産業だった時があったのである。
紙漉きというときこれも自然と融合した生活だったのである。
清い水が必要であり材料となる樹も必要でありそれが近くにないとできない
今だと大量生産の工場となったが昔ならこうして山村でもその回りの資源を利用して生活になっていたのである。そういう村であってこそ村だったのである。
そういう村の方が魅力あるとなる、ただそうはいっても現実その暮らしは紙漉きにしても厳しいとなる。

 10月から越年の春ころまでの冬場を中心とする農閑期に、凍り付いたような水にさらし、長時間の作業が続く。しかも、江戸時代から、この仕事は女性のやるべきこと、とされてきた。しかも、零細な家内での仕事なので、とくに主婦や娘への負担が増す。男も次第に加わるようになる。
 さきにふれた「養女奴隷」への負担も、そこに発した仕組みであったし、年季奉公人という徒弟制度から抜け出せないのも貧困から始まっていた。

 津和野藩では、「養女奴隷」のような記録は見当たらなかったが、奥に隠されていたことかもしれない。ただ、凍るような水に手を入れ、深夜に至る長時間の作業のつらさは語られている。また、コメとしての納税ができなければ、和紙で代替させ、のちには大坂屋敷などで換金しやすい和紙を貢納させることにもなっていった。紙の仕入れは当初、商人の手で行われていたが、藩の有力な収入源とわかる17世紀中ごろからは「紙専売仕法」を定めて藩の独占事業にしてい

『紙漉きになるつもりじゃなかった』

 何か自分は過去になると江戸時代でもロマンチックにイメージするが実際はこれほど厳しいものであり奴隷労働が行われていた。これも意外だった。醜い少女がこの場合は良くて丁稚奉公のように奴隷のように使われた
一方できれいな少女は遊女に売られていたという現実がある
こういうことは今でも最貧国に行ってみればわかる、江戸時代とにているからだ。
でも山にそうした暮らしがあってこそ村も成り立っていたということもイメージする
でも米が納められないから紙漉きだと紙で納めるということもあった、つまり貧乏なときは税金でも過酷になるのである。

そういう税にしても直接的にずっしりと重いものを感じるのである。
つまり江戸時代は子供でも働かせられていて丁稚奉公に出されたとか女の子でも過酷な労働を強いられていたのである。最貧国では子供も労働させられているし子供が多い方がいい、男の子がいいというとき労働力になるからである。労働自体が過酷だったのである。まず紙漉きするような家には嫁さえ来ない、奴隷のように養女をもらって労働させていたのである。

石神で紙漉きをしていたという農家に嫁いだ女性は華奢であり力仕事などできないだろう第一そこは農家ですらない、会社員の家だったのである。
今になると紙漉きをして都会から移住している人もいる。かえってそういう仕事にも憧れ人もでてくるが現実は厳しい、そうして作られた紙だとすると高価であり貴重なものだとなる、捨てるのももったないとなるのは当然だったのである。
紙というのは戦前でも貴重だった、鉛筆でも短くなって使いないくらい短くなっても使っていたのである。物はなんでも貴重な時代だったのである。
こんなに物があふれた時代はなかったのである。これほど物を粗末にする時代もなかったのである。

皇居歌会始め 入選歌

どの家も 紙漉く夜なべ終えたらし峡(かい)を流るる 川音きこゆ

1968年(昭和43年)


ここにこんな歌がでていた。夜なべとういことは夜まで仕事していたのである。ただ昭和43年では戦後二十年でありその頃紙漉きしていた家はなくなりつつあったろう。
でもどの家もとあるからまだしていたのかとなる

そこで今回あったのは何か陶芸をしている人で蛇を探しているという、蛇の鱗が模様として参考になるというからそんな人がいるのかと思った。仙台から来た人で仙台からくる人には良くであう。街の近くにこういう流れがあるのだから夏でも涼しい
一軒家がありその脇を水無し川が最近が雨が一杯ふったので気持ちよく流れている
あそこはイオンからさほど遠くないのである。写真とらないのが失敗だった

今日は山の方で自転車がパンクして歩いた、相当な距離を歩いた、でも歩くということは自転車の感覚とは違う、自分は歩くたびはしていない、そこで歩いてみたいと思った。
鹿児島から青森まで歩いて旅するという人には驚いた。
歩く旅は自転車で感じるのとも違う、だから今の時代は歩くということは新鮮な体験になったのである。
相馬市から鹿島まで旧街道をたどり歩み、次は小高まで歩み鉄道が小高まで通ったから電車で帰るのである。これでも旅なのである。
ともかく介護が終わって余裕ができた、だからまだそんな計画をするようにもなったのである。ともかく昔のことは歩いて生活していたのだから歩いてみないとわからないのである、旅だって歩いてしていたのだから歩いてみないと旅のこともわからないのである。







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