秋の蝉(末期の目で見る自然ー自然な死を受け入れる)
蝉一つ死して拾いぬ里の道
秋の蝉今年もここに鳴きにつつその声聞きつここに死になむ
夜をこめてしきり雨ふり虫の鳴く声のひびきつ朝明けむとす
白々と木槿の咲きて雨しとと今朝の静かに我死なむかな
我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂いはゆる生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食色にも倦あいた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透すみ渡つた、病的な神経の世界である
芥川龍之介の末期の眼というけど35歳で自殺した、その年で末期の眼とかあるのだろうかそれは無理をしたものである。ただ天才となると凡人にはわからないものがある
啄木の不思議は27歳であれだけのものを短歌を書けたのかということである。
それは老境のものだったのである。20代でそんなふうになるはずがないのだが結局死というものを明確に病気で感じたからそうなった。
だから若いから延々と死の未練を歌ったのである。やはり自然な死ではないからそうなった
ところが人間もやはり60代とか70代となるとだんだん死というのが自然なものになってゆく、
しかし食色にも倦あいた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう
このことが自然な死を受け入れる一番の要因になる、人間の命はやはり本能であり欲望があるからつづいている、それは個々人で差があるが欲望の強い人は老人になっても本能的な欲望は消えない、かえって熾火(おきび)のように燃えあがるのである。
だから週刊誌で老人の性の特集をしているのである。
人間の本能というか動物の本能でもそれだけ強いものであり簡単に消えないものである。人間はともかく快を執拗に追求しているのである。老人になるとかえって食にこだわる。こってりしたものは食べないにしても味にこだわる、これも快の追求なのである。
それが本能であり生きることだからである。まず誰も苦を求める人などいないのである。
ただ人間の自然な死はありうる、やはり人間の動物の本能が消えてゆくと自然な死にいたる。ただ人間の場合は本能というか動物的欲というかそういうものだけではない、様々な欲がある、名誉欲とか名声とか何かそういうものを求めるのが動物と違っている。
人間は老人になれば人によるが自然な死に向かう、すると末期の眼で自然を見るようになる、今回の短歌でも別に自分が今すぐ死ぬわけではないが何か死を受け入れて自然を見ているのである。別に病気でもないし死期が近いわけではないがやはりだんだん死に向かう心境になる。
だから死に場所を意識する、動物が象などが死に場所があり死ぬときそこに行くということはやはり本能的に死を意識するからだろう。猫も死ぬときは消えるとかいうのもそうかもしれない。だからそういうふうに人間は死期を迎え自然に死を受け入れて死んでゆくのがいいのである。
そうはいっても現代の問題は死というのがどうしても病気になると苦痛があり簡単に死ねない、そして延命治療などほどこすと最悪である。死にたいのに死なされないというのは最大の苦しみを与えることにもなるからだ。
だから自分の母親は百歳まで生きて何か苦痛もなく死んだから最後だけは望みがかなったのである。眠るように死にたいといつも言っていたからである。
百歳まで生きるとなると老衰だから苦しみがないのである。
人間はその前になんらかの病気になり死ぬのである。母は病気が死ぬまでなかったのである。
つまりもう60代は元気だけど70代以上になると高齢化でも死を意識するし死が身近なものになる、そこで死に場所が問題になるのである。
意外とこのことが見逃されている、死ぬのはどこでもいいとはならない、やはり長年なじんだ場所に死にたいとなる、故郷で死にたいともなる、それでこの辺は原発事故などで住めなくなり他に移り老人には酷だったということは確かである
そういうことを親に対して気づかう人もないだろう、親を故郷で死なせてやりたいと思う子供がいるだろうか?
それは別に原発事故がなくても親と子が離れて住んで最後は故郷ではなく子供のいる所で死ぬ人も多い、近くではそうだった、葬式のために一時もどってきたが子供の住んでいる所で死んだのである。その人も長年親しんだ故郷で死にたかったかもしれない、ただ別に故郷でなくても長年親しんだ所ならいい、それがたいがい相当な老人になり体が不自由になってから子供の所に引き取られるからその精神的負担が大きくなる
いづれにしろ自然な死を精神的には受け入れるようになる、でも肉体的にはそうはいかないのが問題なのである。死んでもいいなと思っても肉体が生きていれば生かそうとするのが現代だからである。そして家族を二人看取ったが簡単に人間は死なせることができない、延命治療だといっても認知症でも人間は馬鹿になったともいえない、人間として生きているし時々特に最後は正常になることがある。それが怖いと思った。
これも不思議な現象だった。人間が生を全うするというときそういうふうに最後までわからないことがあるからましてや他人の医者やその他の人で簡単にもう死んでもいいだろうともならないのである。社会的には延命治療など金がかかるからさせたくないということがあるが家族にするとそうでもないのが矛盾なのである。
とにかく自然な死を受け入れるばそんなに生に固執しなくなり死んでゆく
でもまだまだ自分がすぐ死ぬということではない、ただそういう心境になったということである。
タグ:秋の蝉)末期の眼
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