2016年10月18日

広域化グローバル資本主義の限界 (原発事故から考えるー離散解体しやすい社会)


広域化グローバル資本主義の限界


(原発事故から考えるー離散解体しやすい社会)


「われわれのだれもが、面識のない人びと、その存在についてさえ知らない人びとの役に立っており、ひるがえって、まったく知らない他の人びとのサービスのうえに生きているのである。


人間を経済学的な面からみると最近考えたことはこの辺でも地元の人が作った果物とか野菜とか花を売る市がたつ、そこで最初に買ってもらったリンゴがなんともうまかったのである。
今までは二種類しか紅玉リンゴとフジリンゴしかスーパーでは売っていないので食べていない、それは地元産にしては甘いし不思議な味だった。これなら高くてもいいと思った
スーパーの二倍はしていた。
ところが次に買ってもらったのは小粒であり紅玉リンゴでありスーパーでいつも安く売られいるものである。それは三倍の値段だった。
地元の市の方がなんでも高い、でもその時感じたことは「なんでこんな安いリンゴが三倍の値段なのだ」という怒りにすらなる
人間は値段に敏感だからだ。ただこういうことは現代の経済の矛盾である。
地元産を買うのは地元の人を優先している、地元のものを買うことは地元が経済的に豊かになれば回り回って自分も豊かになる。そういうのが今までの経済だったのである。

現代の経済では何が起きているのか?

金ゝ物ゝ人

人間がいるとしてもその人間より物が価値がある、物を通して人間の価値が計られる
「なんだ、こんな普通の安いリンゴを三倍の値段で売るのか、こんなのしかここでは作れないのか?」となりその人間の価値が計られその人間自体の価値の低下につながっているのである。
でも地元になると地元で生きるのだから地元のことを大事にするということはあるが現実問題として広域化グローバル経済になるとそうはならない

この辺でつくづく考えさせられたことはそのことである。今でも復興住宅を建てる人は九州から北海道からも来ている。それがなぜなのかよくわからない。
建売住宅の場合は仙台の人が来て作っているからである。復興住宅は政府が関係しているから全国から来ているのかもしれない、その会社では熊本でも地震の被害がありこれと同じような復興住宅を建てているというからだ。
その会社の説明ではこうした復興住宅を広めるためだとも言っていたからである。
ともかち除染関係でも全国から来ている
そして地元で働いている人は少ないのである。9割くらいは外部の者によって復興事業が成されているのである。ボランティアもそうである。
そして地元の人は毎日パチンコ屋通いだとか遊んでいたのである。
これもおかしな現代の矛盾なのである。

一方で地元の人でも仙台に車で朝早く通って建築関係で働いている人もいる
また広域的に仕事をしないともうからないとかで建築関係では全国に仕事を展開した人はそもそも個人では無理であり事業に失敗した。
今の経済はこうしして広域的でありグローバル経済になっているとき地元に土着するという感覚がない、それで地元に愛着する愛郷心も希薄化したともなる
普通家を建てるときたいだい地元の大工とかでしていた。するとこの家は自分達が建てたとかわかる、建ててもらった人も地元の大工に世話になったとかなる

でも建売住宅だとそういうことが全くない、自分がこの家を建てた、仕事したけどその家に入る人とは何の関係もない、別にその家建てたからといってその家の人に感謝もなにもない、第一建てたらあとは遠くから来ているのだから関係しない、ただ復興住宅は地元の大工もかかわっているからその人たちはかかわるがほとんどは外部の人で建てたのであるそこで報酬は金しかない、会社からもらう金が仕事の報酬でありその他はないのである。一般的に今の経済はみなそうである。地球の裏側から食料でも物が入ってきたからと言ってその人のことはわからないのである。
ただいいものだったら買う、すべては値段で決まる、いいもので高いとしても買う人はいる、金のある人は買う、ない人はいくらいいものでも買えないというのが現代の経済である。
すると金ゝ物ゝ人の原理が働いてくる、人間の価値は金で計られる、三倍もして小粒の味の良くないリンゴをいくら地元産だからと買わない,それよりそのことによって地元の価値の低下と人間の価値の低下が起きているのである。
「この土地ではこんなものしかとれないのか、この土地に住んでいる人間は価値がない、劣っている」とまでなる。

現代とは文明とは物の価値でもそうだが人間の価値が低下したのである。
機械によっても人間の価値は低下する、機械の方が仕事ができることがあるからそうなるロボットが仕事するようにるなと人間自体がいらない、人間はもう雇う方にとっていらないとなってしまう。それはとりもなおさず人間の価値が極端に低下したことなのである。本一冊作るにも今までだったら活字を拾っていた仕事があり様々な行程で作られてきた。でも電子本とかなるとその行程もない、人間の手はほとんどなく簡単に作られてしまうのである。そこで人間はいらなくなり失業者が増えるともなる
そしてもう人間の仕事がなくなる、機械が人間の代わりに仕事するからとなり人間はどうするのかとなると、ベーシックインカムで金を提供するということが現実に外国では行われたのである。

この辺で起きたこと原発事故で放射能で人が住めなくなったこともあるが何かそこにはまた別な要因があった。広域化グローバル経済というのは昔のように80パーセントが農業していたという世界とはあまりにも違うのである。
第一次産業の割合一割にみたないのである。だからこそ原発の比重がこの辺では大きくなっていたのである。東電に地元が買い取られていた、東電の社員化していたともなる
東京の東電の社員寮に入ったりしたものもいるから社員と同じであった。
それだけ東電にしめる経済の比重が大きくなっていたからそうなる。
つまり米とか野菜とか魚でも木材でも東電の電気が価値があるという世界である。
そうだからこそ原発は電気を産み出すのだから一番価値があるとなっていたのである。
東電社員もそのために原発事故前は威張っていたとかうらやましがられていたのてある

ともかく地元に故郷に帰らないというとき何か原発事故とか放射能被害とかそれだけでとはない現代の社会が影響してそうなったともみれる。
広域化グローバル経済になれば一地域の経済で生きているのではないから解体しやすいとうことがある。極端なのは日本だけに留まらないで金持ちは外国に住むとか世界的にも起きる、金さえあればどこでも暮らせるとなるとそうなってしまうのある。
そこでは人間が物に金にのみ換算される、計られる世界だからそうなる
それがマルクスが指摘した物神化のことである
またそれに反発して市場原理の働かない、ハイエクの経済観である。

資本主義が限界だとういうときグローバル経済でも限界になる。その矛盾も大きくなっている。そして新しい世界が求められている
それが何なのかというとき人間が人間的に暮らせる社会である。
シェアリング経済というのもそうかもしれない、シェアするというのは新しい共同をコミニュティを作ることの模索なのかもしれない、現代経済は極端化した金ゝ物ゝ人になってしまったのである。

番町皿屋敷のように大事な皿を割ったからと下女を責めてしなせたというのもまた別に今だからではなく人より物が大事だということはあった。
自分も経験しているがそういうことは常にあるし家の中で働く人は何か家族的な関係になる、下女はロボットではないからである。
物の方だ人間より大事だということは昔もあった。だから現代の金ゝ物ゝ人が昔にもなかったのかということではない、ただそれが世界的になり何か地元が故郷すら消失してゆく要因ともなっていた、それはどうしても原発事故だけが原因になっているようにも見えないのである。

要するに資本主義の限界とかグローバル経済の矛盾とか広域社会による人間の離散化とかは何か現代の文明社会の行き詰まりとして現れた。
もう経済成長は無理だとか経済もゼロ成長でありそれに見合った社会にするとかもそうである。それは金ゝ物ゝ人が極端化した反動としてそうなっているのである。
何かグローバル経済でも非人間化するものがある、そもそも全然知らない地球の裏側の人に働くこと自体が非人間的だともなる
そうなると金しかないし抽象的なものとてしの人間しかない、具体的な生々しい人間はそこになくなる、物と金に還元された関係でしかありえないのである。
そういう矛盾が原発事故が原因になっていてもそれだけではない、そういう社会状況が拍車をかけて離散したとも見れる


posted by 老鶯 at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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