2016年10月22日

取手から来た歩く旅人 (秋の日に鹿島駅前で話する)


取手から来た歩く旅人

 
(秋の日に鹿島駅前で話する)

 
1871年(明治4年)- 廃藩置県により、常陸国に属した現・久賀地区が新治県、下総国の属した小貝川以南が印旛県に属する。
1873年(明治6年)- 小貝川以南が千葉県に属する。
1875年(明治8年)- 小貝川以南が茨城県に編入される。新治県は廃止され、久賀地区も茨城県となる。
1885年(明治18年)- 地積編成により、取手村と大鹿村が合併して取手村になる。
1889年(明治22年)- 市制町村制の施行により、取手村と台宿村が合併して北相馬郡取手町になる。

取手という地名の由来としては、戦国時代に大鹿太郎左衛門の砦(大鹿城:現在の取手競輪場付近)があったことから名づけられたと言う説が有力ですが、平安時代末の11世紀には、伊勢神宮の 相馬御厨として、取手市周辺がすでに史料に記されており、さらに13世紀になると、稲村、戸頭、高井、大鹿などといった地名も、相馬氏の領地として史料に出てきます。

このあたりが、取手という地名の発祥とも言われています。

鹿島駅前で案内板を見ている人がいた。

「最新必ず退職して旅する人に会います、昨日もここから相馬市まで歩いて行った人がいました、驚いたのは鹿児島から青森まで目指しして歩いた人です、その人も退職した人でした」
「私も九州とか東海道とか中山道とか全国歩きましたよ」
「そうですか、今の60代は元気ですよ、歩くことは疲れると思いますが結構歩いています」
「まだこの辺の浜街道は歩いていないので今回歩いているんですよ、双葉とか大熊辺りは歩けないので残念です」
「ここは相馬市に城跡がありますよ、六号線に道の駅がありそこから分かれた細い道が昔の街道です、そこに松並木が残っています、今はなかなか松並木がないですがあの松並木はいい松ですよ、あそこを歩いてみてください」

その人は何か相当に歩いている、歩いて旅することが老後の仕事にもなっているのか?
とにかくどこにでも退職した人たちが自由な旅人になっていることがわかる。
なにしろ暇あるし金もあるからだ。この前は50日間自転車で旅をしている人だった。
その人はテントを積んでいない、ホテルを泊まりながらの旅である。
札幌から自転車で来た人はテントを積んでいた。そして道の駅にテントで泊まった
67才でそういうことはしにくいがしていた。
ただ思うとフェリーできて八戸で下船して大洗までゆくのだからそれほどの行程ではなかった。数日の行程だったのである。
ただテントに泊まることはあの年では楽ではないと思った。
今日の人は相馬市にホテルを予約していた。なかなかこの辺でホテルに泊まれないからである。その辺は用意周到だった。ホテルに泊まればそれなりに金がかかる。
でも退職した人は金ももっているからできるのである。
ただ退職した人でも問題は体力とか一人旅する気力とかコミニケーション能力がためされる、だから結構楽ではないはずである。

「鹿島の右田浜の一本松見てきました」「あれは高いけど低い太い松が多かった、やはりそれなりに百年とかでも過ぎていたから太かった、松川浦の松はみんな細かったからです」
「津波でも原発事故でもこの辺は大変だったでしょう」
「どこから来たんですか」
「取手です」
「取手というと千葉県でしたか」
「いや茨城県ですよ、それには事情がありました、利根川の関係で改修があって分かれたんですよ」

取手という名前は覚えていた、常磐線で良く電車でその駅を通るからである。
ただそこで盲点だったのはすぐ近くに利根川が流れていた、その利根川のことは電車にのっていてもわからなかったのである。電車の旅は意外と肝心なことを見逃している

「歩く旅は記憶に残るからいいですよ、電車とか車だと記憶に残らない、あとでふりかえっても忘れている、歩いた旅は体で覚えるからいいんです」
「福島県を阿武隈高原を横切り歩きましたよ」
「そうですか、福島県は広い、だから六号線を旅する若者に自転車でも福島県を横断してみろというのですが六号線を走るだけの人が多いです」

福島県を知るにはハマ、ナカ、アイヅとあるとき横断しないとわからない、地理感覚として福島県がわからないのである。その人はそういうことまでしていることは相当に旅している、やはり退職していからけ全国を歩いていているから違っていた。
旅はやはり基本的には歩くことである。歩いて体で知るのがいい、でも車社会だから車にのみこまれる。六号線などはそうである。それで自分は歩く旅はしていないのである。
歩くとなると相当に疲れるだろう。途中でホテルがないと泊まることもできなくなる。
ただその人は電車でもバスでも便利なものを利用している、その中で歩くところは歩いているみたいだ。

ともかく人間は自分のようにこれだけ旅したとしても実際は電車とかなるとまず取手のことは皆目知らなかった。地図で見ると利根川がすぐ近くを流れている、ところが利根川にしてもこれは長い大きな川である。この川のことがなぜ見逃されているのか?
それは今や川は交通路でもない、ただ水が流れているというだけになっているからである利根川は水運があった。ただそういう歴史を知ることは利根川を知るというとき利根川を横切ったとしても橋を渡ったとしてもそれは長い大きな川の一部でしかないのである。
川を知るということはその長さを知るということである。それが日本では外国の川のように水運になっていない、外国の川はみんな水運があり運河のようになっていた。
そして街と街は川で結ばれていた。そこからハンザ同盟とかの商業自由都市が生まれたのである。この川のことを日本人は理解できないのである。
日本にないそうした長い運河のような川とか砂漠とか平原とか草原とかは日本にないのだから理解できないのである。
江戸時代は水運が物を運ぶのに大きな役割を果たしていた。ただ外国のようにもう一つその歴史が見えない、今になると日本の川は急流になったり浅瀬になったりして物を運ぶ船のことがイメージできないのである。外国なら今でもイメージできるからである。
最上川は深いしこれなら船も通れるというのでイメージしやすい、利根川はどうなのだろとうなるとこの川についてはただ電車で横切っただけだから皆目わからないのである。

取手市の歴史にあるように北相馬となり流山市も近いから相馬氏がここで栄えて移動してきた。だから取手でも相馬氏の先祖だから身近だとなる
旅をするというときまず地理を知らないと基本的なことが理解できないのである。
福島県を知ろうとしたらどうしてもハマ、ナカ、アイヅと横断する必要があるのだ。
それはかなりの苦労かある。時間もかかるし歩いたりしたら疲れるから自分は自転車で横断してもしていない。
なぜ自分がこうして旅してきた人とか仕事に来た人でも話をある程度あわせられるのはそれだけその場を踏んでいるからである。それでも日本は広い、だから取手は意外身近なんだけど知らないのである。
そもそも知るということはどういうことなのかというとそのスボットでも知るのにも利根川があるとしたらその利根川の全体の中で取手もあるから知るということは限りなくあるそれで例えその場に行ってもわからないということが多いのである。
今は車でも電車でも一部分を通りすぎるという旅が多いからそうなる。全体からイメージできないのである。

 日既に暮かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。此川にて、鮭の網代と云ものをたくみて、武江の市にひさぐもの有り。よひのほど、其の漁家に入てやすらふ。よるのやど、なまぐさし。月くまなくはれけるまゝに、夜舟さし下して、鹿島にいたる。
 (芭蕉、鹿島紀行)

月明かり船の下るや鹿島へと

月見えず闇の深まり帰るかな

夜を船で下り明けて昼は曇り鹿島に詣でて夜は月が見えなかった。その当時は闇は深いのである。鹿島神宮には森があり暗いとなる。その暗さがあって月明かりで船で下ったことが印象的にもなる。月明かりは暗さがなっかたら映えないのである。
今はもう電気の光でそうした月明かりが消されている、東京近辺は特にそうなのである。だから昔を偲ぶことがむずかいしのである。

川上とこの川下や月の友

 今宵は名月。私はこうして小名木川の五本松で川面に揺れる月を眺めているが、この同じ川上には私の心の友もこれと同じ月を眺めているであろう。

 川上で眺めている「月の友」が誰であるかはもちろん分からないが、古来山口素堂であろうといわれている。

芭蕉庵は小名木川が隅田川に流れ込む河口にあり、小名木川沿いには芭蕉の門人たちの家がありました。芭蕉はたびたび船に乗って門人たちの家を訪ね、句会を催しました。

小名木川とう小さな川でも支流であり利根川とつながり舟運があった。江戸でも川船が行き来していた。時代劇の風景は水運が盛んだったことを示している。
写真にもでていたが広々として利根川が満々と水を湛えている、芭蕉が読んだこの句は小名木川とか短い川のことである。月の友といってもすぐ近くだともなる。 利根川は長いとしてもそれより上となると支流で結ばれているから実感がない。外国だったら遠くまで川で結ばれる友となる。それは実感であり違和感がないのである。ただ夜の川を下ることができたのか、月明かりで下ったとなる、月が明るかったからである。
でもなぜそんなに急いでいたのか?夜はやはり何か危険ではないか?
でも月明かりで船で下るとしたら詩的な絵画的な風景がイメージされる

旅の人鹿島の駅や秋薔薇

我が町によれる旅人取手より来るとしばし秋の日暮れぬ

プログはこうしてその時々書くといいのである。引用もしやすい、問題をある場所をどこまでイメージできるかである。この地理感覚がもてない、東京近辺るなると家がたて込んでいたりして昔の風情がなくなっているからである。そうなると昔を偲ぶということがむずかしくなるからである。



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小名木川と芭蕉

東京にもこれだけの歴史があったとしても川も狭いしビルの谷間になっているし昔を偲べないのである。
隅田川は広いからなんとか昔を偲べるが小名木川は狭すぎるのである。

小名木川(小奈木川)は、江戸の時代には「塩の道」と呼ばれ、徳川家康が下総国行徳(現在の千葉の浦安から行徳あたりにあった行徳塩田)から江戸に塩を運ぶために作らせた運河です。描かれている舟は行徳帰りの舟ということです。ちなみに、家康からこの川を作るよう命じられたのが小名木四朗兵衛という者だったことから、この川が小名木川となったようです。


五本松ここに名月や船いずる

江戸時代は江戸でもそこは自然豊なのである。自然と人工的なものが調和していた。だからベニスのように美しい風景になり浮世絵に残されていたのである。今はそうした自然と人工的なものが調和したものが見られない、ビルの谷間で小名木川も死んでいるし松もない。
だから江戸時代の江戸を旅したらそこは今の東京とはまるで違った美しい場所だったとなる。
それはもうイメージしないか限りない、現実にはもうないのである失われたのである。
その場に立ってもそういう風景がないのだから偲べないのである。

小名木川月の写りて五本松芭蕉の友は川の上かな






タグ:取手
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