「森と里の思想」前田俊彦(プルルトニウム研究者)高木仁三郎を読む
(原発が作られるときすでに農村文化は消失していた)
億に近い金をもらってさっさと出ていった方がいいわけだ
なぜあそこに執着するかということは、作っている田に労力が貯えられていると同時に、周囲の風景にも消し去ることのできない思いが貯えられている
百姓が嫁さんにいくには衣食住についての百姓の文化と技術として身につけて行った
農村にゆけば貧しければ貧しいなりに百姓の文化があった。
ところが今は金銭的に豊に見えても農村に百姓の文化がない、あっても都市的な文化だから同じとして都市的文化なら都市のサラリーマンに行った方がいいとなる。
ここで語られていることは30年前の話である。それ以上に今になると農村はもう農村ではなくなっていた。グローバル経済の影響も大きい。日常的に外国産の食べ物を食べている農村の文化がないというときそれは何なのか?
近くの農家の出の女性は家で納豆を作っていたという、納豆まで作っていたのかという驚きがある。農家の人は戦後も食糧がないときでも鶏など飼っていたし肉でも卵でも食べていたのである。そういう農家は食糧がなくなっても自給できていたから戦後まもなくは農家の方が豊だったのである。それで都会民が高価な着物を農家に売って食糧に替えてもらったという話を聞く、そのことで農家を嫌う都会民がいた。
そもそも人間は農村に文化があったというときそれは日本では千年以上米作りしてきた歴史があるからそれが文化なのである。天皇がかかわる祭りとして大嘗祭があるのもそのためである。それが日本文化なのである。農村文化とは日本文化のことなのである。
農村文化がなくなったというとき日本文化も喪失したのである。
現代は全く違ったグローバル経済であり農村のしめる割合は一割とか生産高でもそうである。米すら外国産のものを食べるというとき根本的に日本文化は消失する。
農村の地位は低下する、遂には農村など日本にはいらない、あいつら補助金で暮らしているだけなんだよとか都会民に言われる、なぜなら昔の農民は自給自足だから都会民にとやかく言われることはなかったのである。
今だってもし炭焼きであり燃料を自給して貧乏でも生活していれば都会民に何もいわれないのである。
今はエネルギーでも石油が必要でありするとその石油を買うために車であれ電器製品であれ日本の会社が世界に売ることで石油を買うことになる、すると俺たちが苦労して働いて石油を買っている、それで農村に電気を供給しているとなり都会民の工業や商業に従事するものの地位が価値が高くなるのである。
外国でもグローバル経済になると果物でもなんでもアメリカでとれる、日本の電化製品であれ車であれ買う、だからアメリカの果物であれ牛肉であれ米さえ買ってくれとなるのである。最近赤い葡萄がうまい、なんかホリフェノールがあるとかで食べたから確かにうまい、それはカリフォルニア産だった、あそこは暑いから果物もとれる、ではそうした外国産の果物を食べられるのは日本で工業製品を売るからであり工業のしめるもの経団連とかの力が強くなるのである。日本の製品が車が売れなくなったりしたら外国産のものは馬鹿高くなり買えなくなるとかなる。
子供の頃バナナはこの辺で売っていない、バナナの叩き売りとかは秋市とか特別な日にしか売っていない、だから子供の頃バナナを食べた記憶がないのである。
自分の父親がバナナを食べたがそれは仙台に行って買ってきたものだったのである。
ミカンとか柿は食べていたが果物は日本産のものだけであった。
この本は30年前に出版されたものでありその頃にすでにこうした情況は作られていた。
それで80才になる人が農家の出だったが農業だけはやるなと殴られたという。
その人は原発で働き建築現場で働いたのである。そもそも原発の作られた地域は30年前ではない40年前とか出稼ぎでありそれで地元に仕事があって定着して生活したいということで原発を政治家がそれに答えて誘致したのである。
だから農民自体が出稼ぎを嫌っていたから原発があれば出稼ぎしなくてもいいとか積極的に誘致したということがある。農村は40年前頃からそういう状態にすでになっていた。
農村の文化というときそれはとても簡単には語れない、それは日本の歴史でもあるからだだから農村文化が消失するとき日本文化も消失するとなる、それは農村だけの問題ではないのである。グローバル経済というのは地域の文化も消失させる、TPPなどでもそうである。日本はただ車だけでも作っていろとかなる、果物でも米でもアメリカがいくらでも売ってやるからとかなる、そういう世界的分業化される、その時全体としての自然と共生してきた日本の文化自体歴史も失われるとなる。
ここで対談している人はフルトニウムの研究者だった、ただここで語られたのは三里塚の飛行場建設に農民が反対したことについてである。
原発についてはあまり語られていない、それほどまだ原発は問題になっていなかった。
なぜならフルトニウムを研究しているのだから原発の危険性を知っているがそれついて語っていないからである。そういう危機感はまだなかったのかとなる。
億に近い金をもらってさっさと出ていった方がいいわけだ
農村文化が失われていたとき当然みんなそうなっているのではないか?
親には農業は継ぐなと子供がなぐられてまでいる時代である。
誰も農業はやりたくないという時代である。現実に農業は過酷な労働が強いられている
機械化しても以前として人間の力が必要である。だから誰もやりたくない、金にもならないとか現代のグローバル経済ではやりたくなくなるのである
だからこそ実際は農業はやめて原発でも金が入ればいいと地元でもなっていた。
原発に反対するということは農民でも漁民でもほとんどなかったのである。
漁業者は積極的に漁業権を東電に売り渡して補償金を事故前も事故後ももらっているから生活には困らないのである。
そういう情況は原発が作られるとき時代的に作られていたのである。
それで何回も書いているけど果たして原発事故が原因だけで故郷にも住めないようになったのだろうか?そのことが疑問であった。すでにそういう情況が作られていて離散したともとれる。家族だって大家族が飯館村とかまだ残っているところはあったにしても親と子は別々に暮らす傾向があったし昔の村と今は全然違う情況もあった。
そのために原発事故で離散しやすいということがあった、そのことは小高でも帰らないというときその土地に昔のように執着していないということがあるのかもしれない。
純粋の農民も農村も消失していたからである。
億の金の方が価値があるという情況が作られていたからこそ故郷は捨てられたということもある。ただその心情はなかなか外からわかりにくいからいちがいには言えない
でも何か離散しやすい情況が作り出されていた、それが原発事故で一挙に表面化したともとれるのである。
芸術とか詩とかでも農村文化の上に成り立つものとしてあった。
風流だって俳句だって四季の感覚は農村文化から生まれている。
そういう基盤がなくしたとき芸術というのも底が浅いものとなる
すでに言葉が死んだというとき都会の中で自然の事物と言葉が結びつかない
ビルの谷間と雑踏の中で本来の言葉は死んでいる。
自然と結びついた言葉は詩であったがそれも死んでいる
自分の追求したものは農業ではないにしろそういう農村文化の基盤の上に成り立つものだったのである。
石や樹や山とか森はそもそも農村と生活と一体化してあったからである。
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