2016年10月28日

【大川小津波訴訟】(2) (子供の方が先生より感が良かった、かえって感が働くの子供と若い人)


【大川小津波訴訟】(2)


(子供の方が先生より感が良かった、かえって感が働くの子供と若い人)


人間は経験しないことは大人でも子供でもその対処方法に差がない、大人が必ずしも的確な判断するとは限らない、その時子供の感ではすぐ裏山に逃げればいいじゃないかとなるのは単純だけど正解だった
その時大人の先生はそうした単純な方法をとらなっかた
危険な川の方に向かって行ったのだからどういうことなのだろうとなる
そしてそうした大人の先生に従わざるをえなかった生徒が死んだ
要するに何か大人とか先生とかいつも指導している人は固い思考に陥る傾向がある。
先生とか公務員とか何か専門にこりかたまっている人も柔軟な思考ができなくなる
先生は社会経験もないから視野がかえって狭いと言われる
つまり卒業したらすぐに先生と呼ばれる職業だからである。
やはり人間は経験が一番ものを言う、経験を積まないと実際の所はわからないのである。

だからこの近くにオランダの大使館に3年間も勤めていた人はそういう経験を積んだから違っていた。別に大使館でなくても今は外国で若い人がいろいろと経験を積んでいるから昔とは違っている。仕事でも外国でしている人が多いからである。
ただ津波となると原発事故でも経験がないから上の人だった指導しようがなかった。
それでスピーディを用意していたのだから放射性物質は風でどこに流れるか東電の社員は知っていたのである。
それで浪江の人と一緒に津島に逃げた人がこっちはかえって危ない、街に引き返した方がいいと浪江の人もその東電の社員に従ったのである。それが正解だったのである。
スピーディを用意していても全く活用されなかったのである。
なぜなら東電でも政府でも安全神話の上に原発を建てて運営していたからである。
常に言っているのは事故は起きませんということだった
事故も起きますよとかいうと地元でも住民からにらまれる、危険人物にすらされる
東電に勤めている人も多いし政府でも県でもマスコミでもどこでも監視状態にあって「安全神話」は作られていたからである。

それでも津波だと生徒に津波が来たらてんでばらばらに早く逃げろとか先生が教育していた生徒はそのように逃げた助かったのである。
それは津波が来るということをそこでは経験していたからである。
緊急時には対処方法がわからないことが多い
津波のように咄嗟に判断を強いられることになるよと余計にそうである。
「津波は来ない」「津波が来たことがない」と老人が言い張り死んだ
老人だって津波を経験したことがないからそうなった。

かえって若い人とか子供は感がいい、柔軟性がある、臨機応変さがある。
それは海外旅行では若い人は言葉ができなくても外国に適応しやすい
それは感がいいから外国でも適応できる
自分は50歳で外国旅行したから適応できなくて失敗が多かった。
それは言葉ではない、感が働かないのである。
だから意外と子供は何もわからないから大人の指導に従うべきだというが津波という経験しないことについて大人も子供もなかった。
かえって子供の方が単純に感を働かせてすぐ裏山に逃げればいいというのが正解だったのである。大人はかえってめんどうなことを考えて津波が来る川の方に向かったのである。これは海外旅行すればわかる、何か変な所にゆきやすいのである。

感がいいというとき動物なども何か異変を咄嗟に感じやすいだろう。それは本能的なものであり津波でも地震でも事前に知ることはありえる、それは何か異変を感じやすいからである。そうでないと生き残れないから本能的にそうなっている
人間ももともと機械とか情報でも様々なも便利なものに囲まれていても必ずしもそれが緊急時に役に立つとは限らない、テレビで10メートルの津波が来るというときはすでに来ていたからまにあわなかったのである。
海の水や川の水が極端に退いたことはどこでも観察されていた。
だからそれをみて咄嗟に判断して逃げた人は利口だったとなる
テレビだけでは追いつけない、時間がないからである。
最初6メートルと言っていた、それだって聞いたことかなかった、次にすぐ10メートルが来るといったときはすでに津波が来ていたからである。

だから先生がまず子供は先生の指導に従うべきであるという日常生活が習慣となっているからその時子供が裏山に逃げるのがいいと言っても子供の言い分を聞いていられるかともなった、オランダのように先生も子供も平等意識があればそうはならなかったかもしれない。
「先生、裏山に逃げよう」「生徒の言うことを先生が聞くのか」
何かそういう習慣があり抵抗があり先生はなぜか危険な津波の来る川の方に向かい生徒を引率した。一旦山に逃げた生徒も先生の指導に従わせたのである。

今は何かみん機械とか情報でもテレビとかその他インターネットでもそうだがそういうものに頼っているが人間の第六感とかは衰えている
人間の感なんかあてになるかとかなるのが現代である。
数値で示して科学的なものは信じるが人間の感などは迷信だとかなってしまう社会であるでもなんか感というのがあたることも多い、なんか悪いことが起きるじゃないかなとか思うと本当に起きる、感が鋭いのは子供であり女性であり若い人である。
老人は経験はあるが感は鈍くなる、経験したことから判断するから経験しない津波とるなと判断できなくなっていたのである。

今の世の中は複雑であり経験しないことなどいくらでもある。だから経験からも計れないのが現実である。人間が一生で経験することは極わずかなのである。
職業もこれだけ複雑で多いからどんな仕事をしているのか理解しにくいのである。
ただその経験した人から直接聞くのが一番参考になる。
それでいろいろな人に聞いたことをプログで書いてきたのである。
ただその聞くにしてもまた限られている、オランダの大使館に勤めた人など田舎ではまれだからである。都会だったらそうしていろいろな外国でも経験した人がいるから違っている、そこが都会と田舎の差だとは言える
一方で都会の人は農業のことなどは無知だとなる。都会はまた人工的空間だから自然を直感することがない、そこで自然災害に都会は弱い、あまりにも人工的空間化していることは自然災害に弱いのである。
三陸のように裏山で清水を飲み薪で米を炊くようなこともできないからである。

大川小学校の悲劇はやはり緊急時にどう対応するかで教訓になっている
まず津波の備えが先生にもないから生徒にもなかった、ただ子供の方が感がいいから裏山がすぐなんだから逃げればいいと単純に判断したのが正解だった。
大人の方は先生はかえってむずかしく考えたのである。
ただ一人の先生は裏山に逃げて助かったし子供でも裏山に逃げた生徒は助かったのである先生でも意見が分かれ多数決で判断して誤ったとなる、それが生死を分けたのである。
だから多数決が緊急時にはいいとはならない、かえって危険となり命落とすことにもなる民主主義は何でも多数決で決められるからそこにも落とし穴があった。
多数決が絶対だということはないてのである。かえってそれが危険なものとなり全員が命を落とすことになるという教訓でもあった。

ただ緊急時にどういう判断をするかは個々人でも全体でもむずかしい。
自分だったらどうなったのかと考えるとわたわたしてすぐ時間がたったらたちまち津波にのまれていた可能性が強い、すぐに逃げにくいのは家にいろいろなものがあるからであるなにもかも一瞬に捨てて逃げることは簡単にできないのである。
津波に対処しにくいのは緊急時に判断が誤るのは時間がないから考える暇もない、即座に判断して行動しないと死ぬからである。
動物だったら別に何も執着するものがないから即座に逃げる、だから動物の方が緊急時には強いともなる、それで犬に引っ張られて津波から逃れ助かった人もいたのである。

人間で意外と大事なのは柔軟性である。年取ると柔軟性がなくなる、体ってそうであり柔軟性がなくなる、ただ老人の強みは経験していることである。
でも何か新しいことに柔軟に対処できないのである。新しいことを学ぶことがしにくくなる。、海外旅行というと異次元の世界に入るからそこに柔軟に対処できないのである。
柔軟というとき学ぶことでもそうである。学び方がよければ学問も好きになることがあるともかく柔軟な思考は一つの見方に固定した見方にとらわれないことである。
何でも様々な見方があり一つの見方にこだわると緊急時でも対処できなくなる
現代は複雑だから柔軟に対処することがどこでも強いられているがそれがむずかしいのである。


posted by 老鶯 at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/177449139
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック