介護は死から供養へと通じている
(納得してくれる介護をしないと供養もできなくなる)
老人の介護となるときそれがふりかえると死ぬことに通じてその後の死者の供養にも通じている
死んでゆくことわかっている、だから介護と死者の供養は一体ともなっていた。
介護はみんな嫌だとなるが介護しないとまた死んでから後味悪いものとなる。
それで介護のときは嫌だとなりしたくないとなる、それもわかるが死んでみるとなぜもっと介護してやらなかったのか、親切にできなかったのかとみんな言う。
介護は人によって家族によってもみんな事情が違うから色々なのである。
自分の場合は特に良くしてもらったから必死になって介護した。
認知症になっても介護した。それで最後にわかってくれたこともあり介護して良かったなとつくづく思う。
そうしなければ相当に悔やんだことになる
なぜなら死んだらもう何もできない
この厳粛な事実を知る、死んだ人にはもう何もできない
こうしてしいれば良かったとかなんとか言ってももう死んだ人には何もできない、生きているときしかできない、そこに介護でも苦しいのだがないがしろにもできない事情があるただこう思うのは家族くらいであり家族でもそう思わない人はいる
親に苦しめられただけの人もいるからだ。
だから介護にはそうした家族の事情がありみんな違ったものになる
ただ施設の介護士などはそうした動機がもてないのである。
ただいくら金をもらってやるしかないとしたらそうなる
なぜいくらの金で安月給でこの人を介護しなければならないのかとなるからだ。
介護と死と供養は一連のものとしてつながっている、いくら良く介護したとしても死に向かっているのが介護だからである。
そして死んでみるともう何もできない、そこで供養するとなるのだがこれも実は介護と関係していたのである。
介護でも何か苦しいけど介護しないと何もしてくれなかったとか親切にしてくれなかったとか恨みを残すかもしれない、それは人によって個々の事情があり違ったものになる。
親戚の人は複雑な事情があるにしろ実の親でとないにしろずっと長く世話したのである。問題はあるにしろそうだった。後でもめたにしろそういう人を全く世話しなかった。
それで「ひどい娘だわ」と恨みを残して死んでいったのである。
その女性にも問題があり自分の家でも良く思っていなかったがその娘が自分の家にきて
「おばちゃんは金あるんだから金でめんをとみてもらへ」と血相変えて去って行った
その人は何も別に自分の家に来て何もする必要がなかったのである。
何もこちらで要求したこともない、要求できないことはわかっていたからである。
あの人はやはり苦労がたりなかったのかとも思う
今はどう思っているかわからない。
考えてみると人間が老いるということ死ぬということそれはもう若いときは二度ともどってこない、時間はもどってこない、あの時こうすれば良かったとかいくら後悔しても時間はもどらないのである。
何かそれと介護とかもにている、死んでからいくらもっと親切にすれば良かったと言っても相手は死んでいるのだから何もできないのである。
ではその後供養するとき、恨みを残したような人に供養できるのかとなる
墓参りしたとしても外からはあの人は供養していると見えても死んだ人はどう思っているのか、あなたはひどい娘だったと言って死んだ人に供養できるのかとなる
自分は苦しかったけどなんとか介護してわかってもらった、だから死んだ家族はそのことをわかってくれると思う
特別良くしたもらった自分だから当然ではあった。
死んだ家族でもそういうことを納得してくれれば供養しても死者と心が通じるとなる
だから介護の問題のむずかしさは介護から死から供養と一連のものとしてあることなのだそこに介護のむずかしさがあったのである。
意外とこのことが後で深刻なものになるかもしれない、なぜならもっと良くしてやりたかったとか親切にしてやりたかったと思ってもできないからである。
だから介護は苦しいのだけどないがしろにもできないことが死んでみてわかる
一期一会とか人間は死ぬからこそ生きている時間を大切にしなければならない、そのことが自覚できない、いつまでも生きているように思っているのである。
ともかく自分はなんとか介護したから心から手をあわせて供養できる
死者もそのことをわかってくれると思うとき心が休まる
何かこれは良心的な問題でもあった。死んでからもっと親切にすれば良かったとか思ってもできない、すると良心がいたむのである。
その良心は外面をいくら装っても偽ることができないのである。
死者はできなくてもなにもに語らなくても見ているという怖さがあるのだ。
死者には偽ることができないのである。
良い介護といってもそんなにはできない、自分はしなかったけど相手は介護してくれたなと見て死んでいったと思う。別に自分だけが介護するということでもない、問題は介護されている方がそれなりに納得してくれるることである。
介護でもきりがなくなる、別に胃ろうなどしなくてもそこで死んでも良くやってくれと思われることである。
恨みを残すようだったらあとで供養もできなくなる怖さが介護にはある。
自分は納得してもらったから死者に供養ができる、死者もわかってくれるということが偽りではなく死んでも心が通じていると思い供養できるのである。
人間は極限られた時間に生きるということを自覚できないのである。
そのことが人間の生をおろそかにする一番の原因だったのである。
タグ:介護と供養
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