2016年11月15日

見える仕事と見えない仕事 (人間の仕事が機械に代わるとき、人間の価値は何か問われる)


見える仕事と見えない仕事


(人間の仕事が機械に代わるとき、人間の価値は何か問われる)


人間は見える仕事だと理解しやすい、江戸時代とかまではみんな見える仕事だったのである。戦前でも見える仕事が多かった。
近くでも籠屋とか籠を竹で編んで作っていたし石屋というとき石を槌で削っていたのを子供の時見ている
田植えにするにしても手で一つ一つ苗を植えていた。
社会自体が見える社会であり社会がどう動いていて人がどういう役割をしていたか見える、理解できる社会だった。
仕事しているのがほとんど人力だったからである。
そういう社会はアメリカでも外国でも同じだった。
ホッイトマンが讃えた詩にしたのはそうした見えて働く人間の姿だった。

何か働く人を見ているとき一番見えて働いているのは建築関係である。特に力仕事しているときあの人は汗を流して働いているなと理屈抜きで実感するのである。
特に猛暑の時力仕事していたのを見たときは感じた。
自分は体力がないからとてもこの暑さでは木陰で休んでいるほかないとなっていたからである。
一般的に医者とか看護師とかも働いている姿が明確に見えるからいろいろあっても働いているなと見る、でも現代の労働の不思議は一旦そこに機械が道具が介入すると違ってくる例えばクレーンとか操作したりする人は本当は人力の何十倍というか百倍もの労働をしている、機械の労働と人間の労働を比べればその差はあまりにも大きいのである。

ところが機械を操作している人の労働は何か人間が労働しているように見えないのであるこれも何か現代を象徴している。
あの人が働いているの?ただ機械を操作しているだけじゃないか、もしかしたらロボットがコンピュターの遠隔操作で仕事しているんじゃないかとなる
そういうシステムがすでにできていて人間がコンピュターの支持で仕事していることが紹介されている
その時人間は人力の労働の百倍もしていても機械がしているのであり人間が労働しているように見えないのである。
それは田植機でも稲刈り機でも機械が労働すると人間が労働しているように見えなくなるのである。
だから労働歌などがあった、それは民謡となったりしていたがそれが今の機械化した労働になるとなくなった。
炭鉱労働でもそこで地下に入って真っ黒になって人間が働いていたので労働歌が残った。
人間は現代では機械の背後に見えなくなった、車でもそこに人間がいることが見えない、顔も良くわからないのである。
ただ突然自転車で横切ったりするとどなりつけられるから人間がいたのかとなる
それで面白いのは自転車に乗る人が危険なので車に乗った人の顔を見て確認して安全を確かめているという、それはネットの話でありそういう日常的なことがかえってネットの情報は参考になる。
車という機械道具がありそれに人間は隠されている、人間と人間は眼を合わせて安全を確認すれば確実だとなる、なぜなら信号で無視する人がいるからである。
これも人間が機械とか道具とかに頼り見えなくなっているからである。

今回ユニットバスで浴室をリホームしたが少し手伝ってみて配管というとき今は鉄の管を使っていない、伸縮自在のゴムのようなものを使っていたのである。
あれらち鉄と違って扱い安くなっている、鉄だとめんどうだからである。
配管などは水が流れなくなるとき、管が錆びたり何かに詰まったりするときである。
何かそれはわかりやすいのである。だからこれは見ていてもこれなら自分でもできるように見えたのである。管をつなぐことでありそこに水を流すということだからである。
そして修理するときもただその伸縮自在の管をとって洗浄したりつないだりすればいいと見たのである。
そもそもそういうことは原理的に簡単だから理解できるのである。
今の技術は何かと素人にはむずかしすぎるから見えないから理解できない
このように見えればそういうことかとなり技術的にも理解できて自分でも直せるのかなと思うのである。それは原理的に見えてわかるからそうなる

ところが現代の社会はあまりにも複雑であり見えない社会なのである。
その最たるものが原発だったのである。放射能も全く見ることはできない、原発の内部もどうなっているかなど内部の所長すらわからなっかたという驚きである。
吉田所長が復水器のことを知らなかったというのだから最も肝心なことすら原発のことで知らなかった。としたら素人などまるっきりわからないということになる
それより誰ももう原発のことなどわからないのである。
だから何かあったら今回のような事故になったら操作できない何もできないとなってしまう、あまりにも複雑であり誰も全体を知るものはいない、としたらどうして修理できるのかとなる、配管でも網の目のようにめぐらされているのである。
その配管自体が老朽化すると放射能だってもれてくるのである。

人間は今この複雑な文明社会を見えない理解できない、すると何が起きるのか?
原発事故のようなものが起きるということである。
そしてもう誰も修理もになもできない、お手上げとなりこの辺のような状態になってしまう。
ともかく人間は労働することで人間の尊厳があった。
それでどうしても見える理解できる労働だと人間は尊重される
株とかでもうけてもその人はどんな労働しているのかとなると見えない、理解できない
だから株にたずさわる人を尊敬するというふうにはなりにくい。
他にも実際はITで働くような人も普通の人にはその仕事が見えないから理解できない
でもなにかたいしたことを誰にもできないことをしているなと見ていても理解できない
その他はいろいろな仕事があってもそうである。
そこにすでに機械がかかわりやがて人間の代わりにコンピュターがなるというとき人間の尊厳はなくなる、人間はかえってコンピュターより能力がないから仕事も奪われるとかなり未来を予測する
知能までそうなれば人間の存在と尊厳とか価値まで問われるのである。
一部のものはすでに人間より優秀なのである。機関翻訳などは進歩しているから機械から学ぶとまでなっている

いづれにしろ働くことで見えないということは原発のように社会にとっても危険なものになる、見えないということは社会にとって危険なのである。
株なども証券でもグローバル化してその流れを誰も見ることができないのである。
そのことから何が起きてくるのか?世界恐慌とか社会の破綻が突然にくる
見えないからもう操作できない、突然今回のように水素爆発が起きて惨事となる
皮肉なのは原子炉なのか密閉されないでガスがもれて大爆発にならずにすんだとかなったそれは実際は人間の技術のてぬきだったのだがその手抜きがかえって助けたとなった
だからとても人間というのはいくら機械を進歩させてもそれを操作しきれないのである。どこかにミスが生れそれが致命的になるのである。
それは結局人間が神でもないし完全ではないからである。
だから原発のようなものをそもそもそんな所長すら知り得ないものを作るべきではなかったとなる





タグ:人間と機械
posted by 天華 at 18:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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