浜通りは東京の影響が大きかった
(戦後の歴史をふりかえる原町-津島から葛尾村まで)
津島なる岩に作れる墓一つ重みあるかな秋の日暮れぬ
集団就職で東京に労働力を地方が提供して出稼ぎ者でもそうである。
そして津波や原発事故で人口が流出してゆく、出稼ぎでもそれで子供を大学に出したとかあり全部が悪いものとはなっていない、
ただふりかえると地方は東京によって影響されていた、地方は戦後は森林鉄道があり森林の木材とか資源を供給していた。常磐炭鉱では石炭を供給していた。
エネルギーが石油に変わったとき急速に地方は変貌した。
東京中心に人手不足となり労働力を地方で提供した。出稼ぎ者もそうである。
東京というのがやはり経済的に地方を動かしていた。
東京に電力を供給するのも労働力を提供するのとにていたのである。
福島県は東京に近く東京の経済圏になりやすかったのである。
そこに繁栄もあり原発事故につながったのである。
結局戦後七〇年は何だったのかとなる。どうしてこの辺がこんな状態になったのか?
それを歴史的にふりかえると地方が東京に翻弄された時代だともいえる
戦後の地方の歴史をふりかえる (戦争の引揚者が山村に開墾に入るー赤生木なども同じだった)
この間、全国で21万1千戸が開拓地に入植し、105万6千戸の既存農家が開拓地に農地を取得した。開墾施行面積は、44万9千haであった。しかし、開拓地の営農は困難を極め、開拓を諦め離村した者も多く、21万1千戸の入植者のうち開拓行政終了時点で入植を継続している戸数は9万3千戸と、半分以下に減っていた
戦後の開墾も厳しいものだった。小池などにも戦後開墾に入った人がいた、街から近い、いたりる所に開墾に入った、仕事がそのときなかったからである
津島から葛尾まで(残暑)
2006年とかのフログを読み返してみると不思議である。自分で書いたものも忘れる。それでまた読み返して付け加える。それが簡単にできるのがインターネットである。
福島県は東京と近いから東京の影響が思った以上大きかった。
戦前でもこれは全国でもそうだが森林資源とか石炭とか石とか資源は外国ではなく国内に求めていたからである。
それで常磐炭鉱などもそうであり石炭がエネルギーだった時代に鉄道も発達した。
鉄道ははじめは貨物輸送のために作られた。北海道なども小樽なども石炭を運ぶために鉄道が作られたのである。
資源を国内に求めたからそうなっていた。全国に森林鉄道が網の目のように作られたのもそのためである。原町が明治以降発展したのはそうした資源を運ぶ鉄道のためだった。
原町機関区であり駅前通りににぎわいが生まれた。それは全国的なものである。
そして原町紡績は原紡には鉄道の引き込み線があり生糸が鉄道で運ばれていたのだ。
原紡には自分の母親が十年間か糸取りで働いていたのである。
東京は一見遠いようでも福島県となると近いからその影響は戦前もあったし戦後も継続してあった。東京は巨大な消費地であり生産地でもあったからである。
東京に木材が運ばれる
石材が運ばれる
常磐炭鉱から石炭が運ばれる
原町機関区に何本もの線路
駅前は活気を帯びていた
もうもうと煙を吐いて蒸気機関車が行く
国鉄というごとく鉄道は国を支えていた
その燃料は石炭だった
明治維新から汽笛一声新橋からとか鉄道が新しい文明を知らしめたのである。
なぜなら関所もなくなり切符一つで全国土子にでも行けるとういことは日本全体が一つになることで意識するようになったからである。
その変化はいろいろあっても大きなものだった。
その時から実は福島県とか浜通りは東京の影響を受けてきたのである。
自分の母親が東京に女中で働いたり姉は看護師の資格をとるために東京に一時住んだとかある。
東京はその時代は田舎と東京との差は大きかったから東京に行くことは憧れとなっていたそれは戦後もそうであり自分の大学も東京に選んだのはそのためである。
ただ一方で集団就職とか出稼ぎとか東京に働き出ることはつづいていた。
そしてなぜ原発が双葉とか大熊とかにできたのか?
そこは相馬市とか原町市とかと比べると僻地になっていた。浜通りのチベットなどと言われていた地域である。その地域振興策として出稼ぎでなくても地元で働けるものとして原発が誘致されたのである。
そして東京の目論見としては安全を確保するために福島に原発を作ったのである。
コスト的には送電線などが必要だったけど東京に事故を起きること許されないとなり福島に作ったのである。
経済的にはやはり巨大な東京の影響が特に浜通りでは大きかったのである。
それが結局徒(あだ)となったのである。
東京というとき浜通りはいわきは明らかに仙台より近く感じる、なぜなら東京までの通勤電車が出ているからである。
常磐線でも原町からいわきに行くの二両の電車であり不便である。
でも仙台には八両の電車であり一時間おきとかに出る、今度は高速ができたのでユニットバスをリホームする会社が仙台から入ってきて200百万かかるのを100万で作った。
今度は鉄道から高速の影響がでてきた。ここはもともと仙台の影響が大きかった
そして津島では中国人の嫁がこんな山の中に住むのが嫌だとナタで夫を襲った事件があったのだ。確かにあんな山の中だと日本に憧れたのは都会に住みたいからだったろう。
でも別に浪江とか町の中に住めばそういうことはなかったろう。
原町も近いし結構都会だからである。
赤生木から津島に行ってそこから葛尾村に行ったのは10年前にもなった。
あそこで印象に残ったのは岩の墓があかったことである。
なにかそこに墓の重みを感じた。墓は最後に人間の姓の継続を語るものである。
つまり家がなくなっても墓は残っていることが多いからである。
この辺でも事業で倒産した家があったがその人は住んでいないが墓は残っていたのである何かそしてあの岩の墓は貫祿があり重みがあると感じた
地元でとれた岩で作った墓である。ただ岩にしたのは加工していないから金はかからないとなっていたのかもしかれない。
ともかく赤生木とか津島とかは一番放射線量が高かったからもう住めないとなる。
だからあの墓もなくなるのか?どうしても人が移りいなくなると墓も移動するからだ。
津島は戦後開拓に入った人たちが多かったみたいだ。それで結束が強いと報道された。
あそこは浪江町の中心部からすれば相当に遠いのである。
どっちかというと三春に近いのである。
あそこに人が住まなくなるとどうなるのか?墓だけ残っていても墓参りする人もいなくなる、そして遂には荒れ果ててしまうのだろうか?
もしかしたらナタで襲った中国人の嫁は喜んで都会に出たのかとなる。
そういう辺鄙な地域なのである。
でもそうきいう場所に津島から葛尾村へゆく森の道にまさに待宵草(月見草)が自分を待って咲いていたと詩的にはなるのである。だからまた行きたいとなる。
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