2016年11月21日

冬の蝶(俳句は写生ー空家にもみんな違った表情がある)


冬の蝶(俳句は写生ー空家にもみんな違った表情がある)

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残る菊空家にあわれ今日も見る

良く見れば空家に一羽冬の蝶

冬の蝶あわれ一羽の消えゆきぬ

晩菊や小さき町の駅舎かな

この庭の石に囲みぬ冬椿

岩風呂や奥山の月我がながむ

磐司岩流れうづまき紅葉散る


この道を今日も行くかな石の庭紅葉の燃えてともに住む街



毎日同じ道を行ったり来たりしていた。それも介護で十年間だったから長かった。
街の真ん中に二三軒空家がある。そこは荒れている
そこは一軒家で500万で売り出していた、でも買ってもリホームしないと住めないかもしれない、そうなると価値が低いというより500万では安い
そこに残る菊が咲いているのを見て通る

空家というのにもいろいろ表情がある。近くの空家は不思議だが荒れていない、そこにはいつも白い薔薇が咲いている、でも住んでいないのである。
そこは時々人が来て掃除などしているから荒れていないのである。

空家でも必ずしも荒れているとは限らない、ただ留守にしているという感じのものもある空家の表情は一軒違うのである。家にもそれぞれの表情があり個性があったためかもしれない。
すさまじい空家は森と竹藪にうばれた空家である。それは街から離れた所にあった。
ともかく全国で空家が800軒というからすごい、空家の時代なのである。
この辺で空家でも他から移って借りた人などもいるから空家の需要があるのかもしれないただみんな新住宅外に建った、でも一部は街の中にも建っている
あそこは二三軒空家が並んでいるからなぜだろうともなる

俳句となると写生だと前から書いてきた。この空家はすぐ近くにありそこにこの蝶がとまっていたのである。アカタテハである。
あまり街ではみかけない蝶である。
要するにただ空家にこの蝶がとまっているということが写生であり不思議だとなる
写生がすべてを語っているのである。ただ今の時代だと写真が不可欠になる。
なぜなら冬の蝶がとまっいているといってもどういう蝶かは写真でしかわからないからである。

よく見れば薺花咲く垣根かな 芭蕉

よく見ればというときこれは写生なのである。そもそも人間はなんでも良く見ていないのである。回りでも平凡でも何か見るべきものがあるが見ていない
旅ではいろいろ見るものがあるのだがゆっくり見れない見ていないとなり忘れたとなるのである。

俳句は写生に徹すれば意外と深いものができる。この句も何か平凡のように見えても鑑賞できる人は深いものを感じるだろう、空家に冬の蝶がにあっているともなるからだ。
庭の石と紅葉が映える新しい家の道を毎日通る、やはり仮設と違い家はそこに定着するとなるから違っている
ともに住んでいるのだとみる、ここに暮らすのだとみる。仮設ではそうは見えなかったからである。


なんか旅から介護で十年間遠ざかった。母が死んでからは本当に一人でありそれがなんとも不思議な感覚になってしまった。
何か特に昼間がらんとした家にいるのが嫌で良く原町のモスバーガーにでかける。
そこでも一人だけど家の中で一人でいるのがいやなのである。
老人の一人暮らしの人がスーハーとか人ごみに出ているというのがわかる
一人で家の中にいることが淋しいからである。夜がそれほど感じないが昼間に感じるのである。

秋保温泉にはなんかずいぶん前に行った、大東岳にも仙山線から上った。あそこも登山になるから結構楽ではなかった。
登山もずっと十五年くらいしていないだろう。
何か外にでる、旅するのが億劫になった。旅でも登山でもそれなりにエネルギーが必要だった。そして家に誰もいない留守する人がいないということも何か嫌なのである。
自分が自由に旅できたのは家を守る人がいたからである。

秋保温泉から二口渓谷に行って紅葉でも見ようかとなるが仙台からバスだしこれも億劫なのである。
思い出すとあの時は二口渓谷を下った所に岩風呂があり入ったことを覚えている
その時も秋で月が出ていたのである。月は山にあう、太陽はやはり太平洋から昇るのがにあうとみなれているとそうなる。


タグ:冬の蝶
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