2016年12月09日

飯館村考(高倉から長泥、比曽への道) 江戸時代から原発事故までの考察)


飯館村考(高倉から長泥、比曽への道)


江戸時代から原発事故までの考察)

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●江戸時代の飯館村

飯館村というとき歴史がそれなりに古い、大きな杉木立の居久根があり氏神を祭る社があり中に古い鉦が下がっていて延享2の年号と先祖の菅野伝左衛門の銘がありました。

1747延享
1750寛延
1751宝暦
1764明和
1772安永
1781天明

1747延享 から歴史が始まるから古い、比曽はヒソであり焼き畑に入った場所である。佐須もそうである。なぜなら草野が中心部でありそこからまた離れている山中にあるからだ。佐須もそうである。地名というのは何か人間の営みと自然と関係して命名され残されている。
ただこれは何か地図を見てもわからないのだ。飯館村自体が本当に広いから地理をわかるのは容易ではない、それは狭い地域でもそうなのである。

飯館村は中心部の草野と飯樋(いいとい)とその周辺部から構成される
草野は臼石とか二枚橋とかも含まれる、館東とか地名があるのももともと大館と飯樋が明治以降合併して飯館村になった。
草野は最初は伊達氏に半分くらい属していた。飯館で何か伊達と争いがあった。
戦山(いくさやま)とかあるのはそのこととかんけいしているかもしれない

大倉は鎌倉から来た南相馬市の鹿島区の岩松氏が大倉を所領としていた。館とつく地名は中世の江戸時代の前の館でありそこが城の役目を果たしていた。
だから館、楯とつく地名がある所は古いのである。
南相馬市だと今の市街を形成した原町の市街は雲雀が原の野馬土手があったところで原っぱだったのである。あそこが中心部ではない、その周辺の深野とかその他が古い場所である。
郷土史というとき村の新旧とか時代を知ることがまず第一なのである。その市町村でどこが一番古い場所かである。
飯館村の場合は草野になる、なぜならそこは上田が多かった、いい田が多かった。
飯館村というと山が多いから山だけのように見えるが広い平地もありそこに田が作られ米がとれた。一番とれたのは草野地域でありそれでそこに人が一番多く住み中心地になった

次ぎに飯樋が飯館村の二番目に人口が多く集中したところである。江戸時代には塩の道の番所があり60人もの役人が勤めていた。そしてそこで伊達藩と相馬藩が森林資源をめぐって争いがあった。玉野では伊達藩と米沢藩と相馬藩が三つ巴で森林資源を争ったことは有名である。飯館村は伊達藩と争う境界であり境目付とか横目付とかが多いのである。
江戸時代でも村と村は自給自足体制で合同しないから境畑とか境がつけば何か村と村の境だった。
飯館村はそうした境の土地だから比曽でも川俣の山木屋に近くそうした争いが生まれる土地だった。山木屋となると三春藩の領域とも接する、山木屋から三春へ自転車で行ったことがあり三春に通じているのである。
ただ飯館村は広いからふりかえってもその地理がわからなくなっている
大倉から佐須から霊山の道はわかりやすいが比曽はわかりにくいし頭の中で位置が混乱している。
高の倉ダムから道なき道というか森の中をゆく道がある。高の倉の奥に行ったら長泥であり通行止めになっていた。長泥は放射線量が高く住めない地域になっていた。
すると高の倉も放射線量は高かったとなる、国見山で7マイクロシーベルとあったからだ

●明治以降の比曽からも原町に通じていたトロッコ(森林鉄道)

明治以降の飯館村の歴史は今に通じる、やはり木材資源や石材や資源がある村としてあった。もともとは自給自足体制経済である。だから交通として馬を利用していたがその飼料となるのは草でも山から供給できた。今なら車でもガソリンが必要になる
馬が足となっていた時代は長い、だから馬頭観音の碑が今でもいたるところにある。
それは明治以降のものであり大正時代以降も多いのである。江戸時代はかえってまれなのである。馬車屋があったように運搬はもっはら馬だったのである。
つまり馬は野馬追いのように軍馬ではなく運搬用とか耕作用として使われていたのである
それが変わったのはトロッコが森林鉄道ができたときからである。この森林鉄道は網の目のように全国にめぐらされていたのだ。例えば浪江の高瀬川そいの岩をくりぬいて葛尾村の落合まで通じていた。それだけ木材の需要とか石材の需要があったためである。
それは原ノ町機関区から蒸気機関車で東京に運ばれたのである。
常磐炭鉱だと石炭がエネルギーとして運ばれた、それから森林でおおわほれているから飯館村は炭焼きをした人は金持ちになり羨まれたとかある。
街でも炭で煮炊きしたり暖をとっていた、自分の家でも囲炉裏があったのである。
すると炭の需要が大きいから山村でも生活できていたのである。
それで大倉の老婆が「わたしは相馬の女学校に行っていたんです、鹿島の親戚の家から鉄道で通っていたんです」と言っていた。
相馬の女学校というとき入れる人は相当な金持ちでありほんのわずかしかいなかった。
たいがい尋常小学校くらいである。自分の姉は頭が良かったから女学校に入りたかったができずに看護婦の免許を東京でとった。看護婦もその頃簡単になれない、東京まで行って試験を受けねばならなかったのである。
まず相馬の女学校出たというだけでこの辺では大学を出たという感じになるお嬢様になるその大倉の老婆はそんな感じは全くなくなっていた。
ただ当時山だと金持ちがいた、山持ちは金持ちになっていたのは木材が利用されていたからである。

いづれにしろこのトロッコはいたるところにあり目だっていたのである。
それで何か自分の姉が葛尾村の親戚に行くとき歩いて行ったことを何度も話していた。
そこでもしきりにトロッコのことを語っていたのである。
そのトロッコで面白いのは高の倉に鉱山があり石炭を掘っていた、比曽の人が働きにそこに行った、
芥川の小説にも「トロッコ」という題の小説を書いている、トロッコはどこにでもありなじみがあった。石炭を掘り出してもトロッコで積み出していたからである。

塵労じんろうに疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………

まさにそのトロッコの道は細々と残されている、その森林鉄道をたどって探すマニアがいる。この時トロッコは坂は馬でひっぱった。原町までは坂道が多いから下るのは楽だったそして街にでて買ったのは米だったという、だから米には不自由しなかったという。
それは闇米で帰りは藁に隠して運んだ、馬にひっぱらせて上って行った。
まだ馬はかなり使われていたのである。森林鉄道というときトロッコであり人力だったのである。
ここで興味深いのは飯館村が米がとれていても比曽とか長泥となるととれるのはわずかでありその米は原町から運んだものだのであった。
要するにあのような山中の村でもなぜ生活がなりたつかというと外との交流があったからである。一見孤立して自給自足に見えても確かに水とか炭とか木材とかで自給していたが塩の道があったように外部との交流なしでは山村でも暮らせないのであるる。
自給自足の村だったというとき基本的なものはそうだが全部はそうではなかった。
その辺が誤解しやすいのである。

うちの母は腸捻転で亡くなったけど亡くなるとき「おなかが痛い痛い」と言ってトロ(トロッコ)にのせて原町に下って各医者を回ったけど手遅れでトロに乗って帰ってきた。その時は死んでいた。
(もどれない故郷ー長泥)

こういう話は全国にあったろう。辺鄙なところでは病気は死につなかる。、北海道の雄冬という地域でもおんぶして子供を連れてゆくうちに死んでいたとか不便な場所はそうなりやすい。救急車もない時代だったのである。
電話一本で救急車が来るということかいかに便利であり助かることか今になるとそのありがたみを感じないのである。人間はそうした過去の苦しみを忘れるのである。
ここでは原紡で働いていたことも書いてある。その時原町紡織は軍需工場になっていた。自分の母親が働いていたときは糸取りであり絹織物を作っていた。
パラシュートとか帆布とか軍服を作っていた。
原紡というときこの辺の中心的役割を果たした工場だった。

今になると飯館村が原発事故で住めなくなったというときやはり原発で働いていた人もいたし山中でも山菜だけをとって暮らしていたわけではないのである。
大内村でも原発から近いから三分の一が原発で働いていたから成り立っていたのである。そこが何か誤解しやすい、今は木材でも国内のものを使わないから何か山村と街とか都会とのつながりを感じなくなっているのである。
そうなると山村はなんであるんだ、都会の人が税金をはらい馬鹿高いインフラを維持しなくてはならないとなり不満になる。
別に炭をエネルギーとしていれば山の清水で水道も使わないし最低限の生活は維持できるそれが今のように何でも電気になれば車でも一人一台もつとなればガソリンも必要になる飯館村だってとても金がないと生活できないのである。
まず飯館村だったら自分は住めない、車がないから住めないのである。買い物すら車がなかったらできないからである。

最近自分はユニットバスを作ってもらったけどこれも水の使う量が増えたりガスも使う量が増えたりやはりエネルギーを多く消費するようになる、でも風呂であたたまってあとは眠れるからいいし運動したあともあたためるといいとなり一旦こういう便利なものを使うとやめられなくなる、車でもそうである。

●飯館村の贅沢は一軒一軒の家が森につつまれていた

ただ自分の場合、別に飯館村に行ったとしても原発事故前はその生活のことを考えなかった。自分が飯館村と一番親しい場所は大倉から入った人も住んでいない森となっていた地域である。そこには森に隠され清流が流れていたのである。
あそこは人の手が入らない神秘的な場所だったのである。そこには大石があり春にはキクザキイチゲが残る雪のように咲いていたのである。
そこが自分にとって一番印象的な場所だったのである。
それから高の倉ダムから長泥や比曽に出る場所も長い森の道で暗い、夏でもそこは影なして涼しいとなる。そういう場所があることが何か心に安らぎを与える
それをイメージするとき心の中にやはりその奥深い森の影が反映されるのである。

飯館村の一番の特徴は何かというとき、何か目だったものがないのだが深い森の村だったとなる。そして一軒一軒が森の中につつまれるようにあった。
それが贅沢だなといつも見ていたのである。都会のようにこの辺の街でも街になると家々が接して狭いからである。
一軒一軒の家が広い庭と森につまれてあったのである。だからそのことがかえって贅沢なのである。
東京辺りだと電車にのるのも満員電車でぎゅうぎゅうづめになる、田舎だったらこの辺だったらがら空きとかなる、それが贅沢なことなのである。
ただ反面経済的活力はなく「死者の眠る街」と書いたが生者も眠る街になってしまうのが問題なのである。田舎の方がエネルギー効率が悪いというのもそうである。
人が集まりすめばまとめて住めばそれだけエネルギーは効率的に使える
飯館村のようにあんなに広いところにぽつんぽつんと家があり住んでいればエネルギー効率は悪くなる,でもそういう場所に住むということは都会から見れば贅沢なのである。

田舎の良さは本当はそうした自然と一体となり生活を充実させることにあった。それは別にそういうまでもなくそういう暮らしをするほかないのが田舎だった。
最近だからここに一本の樅の木がある、その陰に隠されるように家がある、街から離れているから農家だとなるが今は必ずしもそうではない、でもこの一本の樅の木が真っ直ぐにたっているとその陰に家があるとき村や町でも支えているのは農家であったとか意識する飯館村などはそうした道々でも木がいくらでもある。
そうした自然と一体化するアイディンティティ化するのが田舎なのである。

一本の樅のすぐに立つ冬の陽の没りて陰にそ家のありしも

樅の木は田舎ではどこにでもみかけるのである。飯館村では奥の誰も入らないような所に重厚な樅の木があった。それは古い神殿の石の柱のように見えたのである。
飯館村のような所になると一軒一軒の家に重みがでてくる。存在感がある。
都会にはとてもそうした存在感を豪邸に住んでももていないのである。
家はなにか家だけでは成り立たない、見晴らしのいい場所とか自然が反映する場所に建っていれば価値は百倍にもなる、それが都会には得られないのである。
飯館村には古い家が残っているというときそれは森林があり木材が豊富だから作れた。
自分の家も木材は橲原からとられたもので柱もいいものだという、飯館村などになると大黒柱になりさらに重みがあるものとなる
だからそういう家から離れるのは捨てるのは嫌だともなる。

●万葉集の歌から飯館村をイメージする

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

右は、聞かく「左大臣長屋王(ながやのおほきみ)の佐保の宅(いへ)に御在(いでま)せる肆宴(とよのあかり)の御製(おほみうた)なり」といへり。

板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む

黒木取り草(かや)も刈(か)りつつ仕(つか)へめど勤(いそ)しき奴(わけ)と誉(ほ)めむともあらず

これらの万葉集の歌は飯館村をイメージすればイメージしやすいとなる
現実にそういう古い家が残っていたしその材料は身近にありとることができた。明日にでももってこようというのはそのためである。
そういう自給自足の中での生活の充実があった、でも反面すでに自給自足でもそれが豊だと意識しないということもある。
その土地の黒木でも草(かや)でもとって働き仕えてもほめてくれないというのはそのことだろう。何か別なことならほめるとなる、現代なら米などありあまっているとか米を作る人などほめない、余って困っているんだとかなるだけなのと同じである。
減反政策などもそれと通じている、つまり都となればそれだけすでにそうした黒木であれ草(かや)をとっても価値ある労働とはならない、別なものが価値あるものとなる。
それは今なら車とか電気製品とかいろひいろありすぎるから米は価値がなくなる、木材でも外材になり価値がなくなる、それで本来の価値が自然と一体化した生活の価値が低下させられる、それが高じて原発を作り事故になり飯館村のような所が最大の被害地になったのである。

●までいなとは(真手とは)

飯館村ではまでいな村作りを盛んに言っている、でもこのまでいなとは何か?
ていねいにおそろかにしないということである。
片手だと何か軽くなるが両手だと真心をこめて対処するとなる
ただこれはどういうことなのか良くわからない面もある。

「左右手」を「まで」と読ませています。この謎を解いて下さい。


(答え)「ま」=「真」で「完全なもの」。「左右手(両手)」で「真手」となるわけです。普段から両手で何かすることを「真手(まで)」と言っていたのでしょう。それを「〜するまで」という助詞の用法に当てはめたのです。

「諸手」「二手」で「まで」と読ませています。

◎左右の臣。羽の臣。鏡臣と剣臣。

『あまのこやねと ものぬしと まてにはへりて みちものへ』ホ27
『おしくもと くしみかたまと まてにあり たねこはみこの おおんもり』ホ27

「まつ(和つ)」の名詞形。
ここでは「A: 合う/合わす・匹敵する・対になる」などの意。
また「まつ(和つ)」+「て(方・手)」の合成。

原文: 大海尓 荒莫吹 四長鳥 居名之湖尓 舟泊左右手

作者: 不明

よみ: 大海(おほうみ)に、あらしな吹(ふ)きそ、しなが鳥(どり)、猪名(ゐな)の港(みなと)に、舟(ふね)泊(は)つるまで

・・・・まで(真手)は待つことにも通じている、しながとりとは何か悠長に待つものの例えかもしれない、嵐よ、吹いてくれるな、猪名(ゐな)の港(みなと)に、泊つるまでは吹いてくれるな、何かそうした祈りみたいなものがこの歌にはある。
歌は祝詞でもあったからそういう言霊の祈りとしての歌が感じられる
両手を合わせて祈る姿なのか、真手というとき真直 (まなお )とかもあり大和言葉の原始性があるのかもしれない

これを現代的心境にこの辺をイメージすると津波だ原発事故で避難したり翻弄されたが嵐にあったが港に船は泊まりそこで休みたいともなる
ただその港に住んでいた村や町に帰れないということにも通じている
ともかく万葉集には一つ一つの歌に深い意味があり日本の自然と一体化したもので同じものが作れないことにある。

飯館に我が帰りたしも帰れじに時はすぎゆく今年も終えむ

こんな心境にもなる、いづれにしろ飯館村がどうなるのか?草野辺りにコンパクトシティ化タウン化して生き残るのか?
二千人くらいの規模蜷というがそれまた村を維持することは容易ではない、老人は帰りたいと言ってもそれを支える若い人が流出したことが致命的なのである。
それは限界集落とにているのである。飯館村だけの問題ではない、全国的な地方の衰退が極端なものとしてこの辺で津波と原発事故で起きたのである。

posted by 天華 at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村
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