2016年12月12日

今日は母の命日 (母の死顔は相当にインターネット見られている)


今日は母の命日


(母の死顔は相当にインターネット見られている)

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忙しく母の命日師走かな

我が家に母の命日冬紅葉

故郷に枯菊あわれ今日も見る


忙しく師走に死にぬ母なりきその一生にふさわしきかな


今日は母の命日だけど何もしない、人も呼ばない、そういう余裕がまだない、花だけ買って飾った、そして墓を見たら死んだ日が二月十二日なっていた。
それは生まれた日だった。石に刻んだからといってまちがいないということもない
人間のしていることには必ずミスがある。

確かに石屋には12月12日としていたはずなのである。これもどっちがミスなのかわからない、良くみていないのが失敗だった、人間は一人だといろんなことでうまくいかなくなる家族がいれば何人か二人でもこ確かめることができるからである。
だから一人というのはつくづく危険である
なんらか共同で暮らしていればこういうことにはなりにくいのである。
特に老人は一人暮らしは良くない、時代的に最新のことがわからなくなる場合があるからだ。

何か死者とか墓とかが自分のテーマにもなった。
兄の墓の中を見たら骨壺にいれたはずなのがその骨壺もなくなっていた。
木の箱だったから230年もたつと跡形もなくなったのか、骨壺は陶器だったろう。
でもなにもなくなっていた、だからその骨を娘にもっていけといってもできなくなっていたのである。
娘はそもそも事情があってもってゆくつもりもなかったのである。
兄の墓と自分の家の墓は事情があって別になっている。
でも今や供養するのは自分一人しかいないのである。
知っている人も自分しかいないのである。

そもそもだから死者とは何なのだろうとなる。ある人は金がないのとその人がいいがげんなために墓に親の名前を刻んでいないのである。
金がないからしない、でも結構食べ物は贅沢しているらしい
これも親不孝と思うが名前を刻んでいなければそこに死者がいるのかともなる
だから死者とは何なのだろうと不思議になるのだ。

いづれは母と姉も兄も合同慰霊する、それは来年になる、一人だとともかくめんどうになる。いちいちお返ししたりするのもめんどうなのである。
だから自分は供養も断った、ただ線香あげてもらうだけだった。
自分は別に金はいらないからである。あとがめんどうになるのが嫌なのである。
ただ世話になった人には香典を多めにだした。

田舎では毎月のように香典を出している人がいる、そうなるとその金がないと困っている人がいるのである。世話になったら多めに出してそんなに多くの人に出すのは無理である金がある人は多くだして金のない人は気持でわずかでもいいのである。
何かなんでも平等だというのは良くないのである。
貧乏な人は別に香典を出さなくても気持だけでいいとかなる
何かそれが今の世の中おかしいのである。

ともかく母が師走に死んだのはふさわしかった、一生が90越えても家事をしていたし働きづめだったからである、その功罪としては何か楽しむこともない人生だった
それも淋しいとなる、花にも興味ももたない、ただ蟻のように休むことなく働いていたのである。これも一見いいようでも異常であり狂気にもなる
日曜日も休まないしただただ働くだけである。そういう人とは一緒にいたくないともなる正直自分にはそう感じていた。大正生まれとかなるとそういう人が多いのである。
遊ぶという余裕がなかったからそうなる。

母はいつも眠るように死にたいといっていた。何かそれだけはその願いはかなった
100才まで生きてそうなったからである。百歳まで生きる人は病気にならないのである。
血管も正常であった。
そして長生きの秘訣はなんですか?と問われたとき無理をしないことですと言っていた。
確かに母は細身でありそもそも体力的にも精神的にも無理ができない女性だったのである冒険などもできない女性だった。

母の死に顔をプログに出したらかなりの人が見ている、「死顔」のキーワードででてくる。実際に親の死顔など出している人はほとんどいないかもしれない、それで本物の死顔がめずらしいからかもしれない、本物の死顔はいい人はまれなのかもしれない、見られないような死相が多いかもしれない、苦悶の表情なのかもしれない、それは医者とか看護師とか葬儀屋は見ているから知っている
母の死に顔は安らかであり笑っているような感じに見えたので不思議だった。

何か知らないけど創価とか仏教系は異常に死相にこだわる、死相で成仏したかどうか判断するからだ。あれもカルトだから仏教系はともかく生者より死者を相手にする宗教なのである。供養も延々とするしその度に金が入るとなるからだ。檀家宗教は死者の宗教なのである。こういうのは仏教とかとは何の関係もないのある。
もし死相がいいならインターネットにも出すだろう、でもほとんど出ていないというのはやはり死相は気味悪くて出せないからだろう。

枯菊というとき今頃になるといつも見ている、故郷に枯れた菊というときそこに住んでいるからあわれだとなる、それは老人でもある。
それは時間の中で経過する自然な姿なのである。
でもそれは故郷に住んでいるから感じることである。老人の介護のために東京から田舎に移住させるのは何か変である、不自然なのである。

つまり人間も生物の一種だというときその土地に根付き朽ちてゆくのが自然なのである。人間の老いもまた同じなのである。それが生物の一生なのである。
でも現代はそうした自然から切り離されて暮らしているからおかしなこと不自然な生となってくるのである。

プログをふりかえり見たら冬紅葉を遺影にさしていた。母はまた冬紅葉にふさわしかった一生が恵まれないということもあった。ただ別に我が家に嫁いですべてが不幸ともならない、結局人間の幸不幸は計れない、意外と最後になると不幸になる人も多いのである。
金持ちの家に嫁いだとしても金持ちの家では息子でも娘でも金があるから施設にあづけるからである。
最後に不幸になっている人が意外と本当に多い、それは介護とかなると娘とか息子でも本心が現れるから怖いのである。
いくら親子でもそうなってしまう、そうなると最後は不幸になる
だから娘を恨んで死んだ女性もいたのである。そういう人は本当に最後は不幸だったとなる。だから人間の幸不幸もわかないとなるのだ。

ともかく一年すぎて楽にはなった、でも淋しさは感じる、介護しているときは何か夢中だった。懸命だった、だから淋しいという感じもなかった。
家にはやはり介護する人がいるから常に緊張状態にもっないたからである。
今になると何かがらんとしていて一人だとなるからでてある。
でも介護というのは尋常なものではない、異常な状態だったとふりかえるのである。
その負担が大きすぎたのである。十年とかしてみればわかる、そういうことが介護には普通にある、その長さの故にまいってしまうのである。

タグ:母の命日
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