悠久の大義とは何だったのか?
悠久とは自然であり天皇のことでとはなかった
悠久(ゆうきゅう)とははてしなく長く(例えば皇紀2600年)続いているさま、大義とは、国家・天皇への忠義を意味する。
進め悠久大義の道 敵米英学徒を圧倒せよ=学徒出陣壮行会での東条英機首相の訓示(1943【昭和18】年10月21日)
…申すまでもなく、諸君のその燃え上がる魂、その若き肉体、その清新(せいしん=新しく、生き生きとしていること)なる血潮(ちしお=身体をめぐる血。激しい情熱や感情のたとえ)総(すべ)てこれ、御国(みくに=国を敬っていう語)の大御宝(おおみたから=天皇の民。国民)なのである。この一切を大君(おおきみ=天皇を敬っていう語「おおぎみ」とも)の御為(おんため)に捧(ささ)げ奉(たてまつ)る(献上する)は皇国(こうこく=天皇が統治する国。「すめらみくに」)に生を享(う)けたる諸君の進むべきただひとつの途である。諸君が悠久の大義に生きる唯一の道なのである。諸君の門出の尊厳(そんげん=とうとくおごそかなこと。気高くおかしがたいこと)なる所以(ゆえん=わけ。理由)は、実にここに存するのである…。
悠久というときなにが悠久なのか?自然が悠久なのである。日本の自然が悠久なのである天皇が代々つづいたから悠久ともならない、それはせいぜい2000年にもならないのでる。自然はそれよりはるかに悠久なのである。
だから大和の悠久の大義とはただこうして戦争のためにのみ使役されたことが悲劇につながっていた。
現実に敵を殺すということは戦争はいかなる大義がるとしてもやはり犯罪になる。
それを戦場では理屈ではなく日本兵は体験したのである。
志願兵も中国人を殺すことを命令されてしたらしい、ただそのことは言っていない、それを大ぴっらに言えないのである。そこに良心の痛みが人間だからあったからだ。
それが悠久の大義のために天皇のために許されるとしたらどうなるのか?
そもそもそれが日本の世界の大義となるのかとなる
日本の国土が攻められたらそうなるが外国に侵略して殺すといことが大義なのかとなるとなりえない。
悠久の大義は確かにある、自然が悠久であるごとくそこに日本の自然と共に大義がある。でもその悠久な自然とはなになのか?その国の山川草木が悠久でありでもそれが敵を殺していいと支持するのか?それは平和そのものであり敵を害するものではない
だから右翼でも何かそういう自然とは関係なくただ天皇もちあげ戦闘的になる
右翼の中には暴力団などがいて実際にかえって日本国民を苦しめているのを知っている
自分の店で働かせて給料を払わなかったりと何か不正をしていたりとか普通にある
そういうふうにむしろ国家至上主義者は大きな不正を愛国者気取りで隠している
そういう人たちが愛国心を語るのは偽善なのである。
それは左翼にも言えるのである。左翼の問題は日本の歴史をすべて否定的にとらえる、だから中国の文化革命でそうした歴史的遺産を破壊したのである。
だから悠久の大義というとき別に日本にだけあるのではない、外国にだって山川草木があるのだからそこに悠久の大義があるとなる
戦争のためにのみ悠久の大義があったことがまちがいなのである。
そもそも悠久の大義が自然にあるとするときなぜ右翼は原発を支持して核武装になるのか悠久の清らかな自然を汚した原発を支持しているのか?それは日本を核武装するために必要だからともなる
国賊とは何かとなるとそうした原発で「安全神話」を作った人たちなのである。
それは政治家であり官僚でありマスコミであり科学者であり学者であったのだ。
日本の悠久の大義を汚したものが日本の支配者層だったとなる
この人たちこそ糾弾されるべきなのである。
だから愛国心というときなになのか?愛国者が何なのかとなるとこれまた偽善的愛国者が多いのである。暴力団が愛国者になりうるのか、庶民を苦しめている人たちがなりうるのかということがある。
ただ愛国心は必要である、人間は戦後はただ利己心の私益の極端な追求しかなくなった。民主主義はただ個々人の利己心を全面的に認め物質的豊かさのみを求めたのである。
そこには国の大義に殉じるなどなくなっていた。カルト宗教団体なども労働団体でもなんでもそうである。ただ個々人の利己心の私益を求めて運動しているから同じだった。
それが宗教という名のもとに社会主義というマルキシズムの思想のもとに団体組織化しただけである。その中味はただ個々人の利己心の私益の追求で同じなのである。
人間は確かにこうした利己心私益から脱することが何か大きなものに殉じることが不可欠なのである。そういう大義があるとき日々のささいなことから脱することができる
戦争はその大義が誤って利用されたのである。もちろんすべてを否定できないものはあるヨーロッパの植民地にされない戦争だったということも一理ある。
でもそこに日本の大義が通用するかとなると疑問になる
それぞれの国はまた義があるからである。
日本人の心は日本の自然と共に一体化して歴史として作られてきた。それが戦争に結びつくものではない、ただ奈良時代に大和国家が形成されたとき日本は統一されて日本となった。
その時天皇が各地に特に大和王権に敗れた蝦夷の魂を鎮めるために奈良の大仏を作ったのである。そういう祭りが天皇に継続されていた。
各地にはその土地と一体となった魂があったからだ。今でも会津魂とか相馬魂とか何かそうなりうるものがある。会津だととくに明治維新の戦いで会津魂が発揮されたとなる
封建時代は藩ごとにそうしたその土地に根付いた文化があり魂があったともなる
その土地と共にはぐくまれるのが文化だからである。
悠久の大義というときそれは別に日本だけではない、自然とともにあった心だからそれは世界に通じる普遍的なものである。だから神道にはそういうことがありモラルもあり世界に通じないことはないのである。ただ天皇を神として世界には通じないだけである。
清らかな自然の中に真直なる心とか直し心とか大和言葉に伝えられている言葉の中にそうした日本人の精神が受け継がれているのである。
そういう心は別に世界的に共通なのである。清い心の人は神を見るだろうというのもそうである。それが他国への侵略とか戦争に結びつかないのである。
それはキリスト教でもイスラム教でも人を殺すことが是認されるわけではないから同じだとなる。だから義の戦争、義戦というのがあったとしても滅多にはないだろう。
それぞれの国々は義があるからどっちの義が正しいともならないからである。
何か日本の大義というときどうしても今は戦争に結びつく、そんなこと主張したらお前は戦争を支持するのかとなる、それはあの太平洋戦争がそうさせたのである。
そこには確かに日本の義もあったが他国の義は無視されたのである。
ただ戦後はあまりにも利己心私益の追求であり会社中心主義になった、そこに日本の大義は失われたのである。
「日本の大義」それすら死語になったともなる、でもその復古が必要になっている
復古というとき古いものをそのまま受け継ぐ回復させることではないのである。
新しい意味をもって復古するのである。本居宣長が大和言葉を新たに発見する作業をしたのもそうである。日本人の心は大和言葉の中にあり受け継がれているからである。
それが万葉集に残されているからである。
豊国の企救(きく)の浜辺の真砂土(まなごつち)真直にしあらば何か嘆かむ
真直(まなお)という言葉は死語になったけどやはりこれと大和言葉の独特な精神を現している、自然の中に真直なる心をもつことが日本人の精神だったのである。
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