鹿島駅の回顧の短歌十首
(復興してふりかえる)
鹿島駅八重桜咲きその影に休みて電車待ちし時かな
この駅のホームに白きつつじかな車窓に写し電車は去りぬ
鹿島駅待つも長しやあわれかな秋の薔薇しもここに見るかな
新年や乗りおりする人それぞれに無人駅に活気のいでぬ
復興の電車通りぬそのひびき今日も駅にし我はあるかな
母待ちぬくもりここに娘かな寒き日なれば寒からじかも
遠くより来る労務者駅にいてしばし語りぬ寒き日なりし
鹿島駅昔ストーブありにしと語りてあわれ寒き日なりし
四両の電車とまりて明るしや仙台へ通ず冬の夜かな
帰りきて待つ人あれや今はなし一人帰りし冬の夜かな
駅をおり月影さして我が一人影ひき帰る淋しき町かな
鹿島駅我が老いつつもここにあり年の明けにきまた旅たたむ
遠き国憧れにつつこの駅ゆ我が旅立ちてまた帰り来ぬ
乗り降りの少なき駅や今になほ二両の電車山眠るかな
鹿島駅の八重桜がみんな切られた、それが残念だった、ただ根っこは残っている
それが成長するには何十年もかかる、だから生きている内はもう八重桜の花は見れない
自分はその花の影で休み電車を待っていたのである。
白いツツジというとき田舎の電車はすいている、仙台近くになるとこむがこの辺はすいているから車窓に白いツツジが移っていてその花を写して去ってゆくのである。
何かそれも情緒がある、見送りしたりするのもそうである。
それは田舎駅だからそういう人間的情緒が残っている、東京都とか都会になると混むからそういう情緒もなくなる、新幹線でもそれが早すぎるから人間的に見送りするにしても時間の余裕がないのである。
結局何度も言うが旅は時間をかければかけるほど記憶に残る、だから意外と電車でも船でも待っている時間が貴重であり記憶に残っている不思議があるのだ。
今の忙しい時代は待つ時間がない、それが無駄とされているのである。
鹿島駅のことをいろいろふりかえる、集団就職の列車もここからでた、でも自分は恵まれていてその時それが何を意味していたかわからなかった、自分は大学に行ったのだからその差が大きかったのである。
その後電車はただ遊びとして旅として乗っていただけである。
実際は旅するにしても家をまもり家に家族がいたから余裕をもってできたなどなと思う
一人になったら家があってももう誰も待っていない、だから何かそれが感覚的に変なものとなる、今度は旅たったらもう待つ人もないのだから永遠に帰らないとまでなってしまう感覚にもなる、家があったとしても待つ人がいないとそんな感じになる
家はあってもそれは建物だけだからである。死んだ人が待っているともならないからである。
いづれにしろ人間は最後はみんな啄木のようになる、啄木は最後にあの若さで死ぬとなったから何でも惜しみ短歌にしたのである。本当に日常のささいなことを短歌にしたのである。そういうなんでもないものでも惜しむようになる。
最後は人間はみんなそうなる。普通は若いときはそうならない、いよいよ死ぬ時期がせまればもうみんな何かつまらない日常的なものでも愛おしくなるのである。
自分にとって駅とか鉄道は愛着がありそれを惜しむものとなるのである。
古い駅の写真
鹿島駅も建てた当時と変わらない古い駅なのである。
この写真の駅は本当に古い、何か駅にはやはり人間的なものがしみついている
ただ新しくなるとそうしたものが消える
城でも新しく建てるとそれが博物館のようにもなる、何かそこにあった人間的なものの記憶が消えてしまうことがある。
日本では木造だから新しくなり昔の記憶が消えやすいのである。
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