納得いかない死
(生者と死者のつながり)
死とは個人的な死であれ家族としての死であれ国家的な死であれ戦争で死んだような死であれ死そのものが納得できないもの了解できないものとしてある
死んだ時、燃やされて骨と灰になりなにもなくなる、この変化があまりにも大きいので納得することも了解することもできなくなる
死はみんなこういうものだとしても納得いかないのである。
そもそも人間が死ぬということそれ自体が不自然でありあってはならないと思うのが普通である。死とは本当に理不尽なものなのである。
こなことがっていいのか、死を前にすべては無だとなりただ死の前には人間は無力だとなる、生あるものは死ぬものだとか言ってもそれに納得している人はいないのである。
今になると自分の家族の死は何なのかと問いつづける、それは自分の場合は特殊であり60年間三人が一緒にいたということがそうしている。
そして自分のために二人は無条件で尽くしていくれたのである。
それは実際は母と子だったなっていなかった、特殊な関係でそうなったから他の家族とは比べることができないのである。
だから自分は家族に対しての思いが他の人より強いのである。
だから余計に死にたいして納得がいかないのである。
人間はそうして愛するものが死んだときその人が以前として死んだとは思えない、それは時間によってだんだん忘れてゆくとはいえ60年一緒にいたものが生者から消えることがない、人にもよる、すぐに肉親でも忘れる人はいる、だからその人の事情にもよる
20年すぎて死者を偲んでいる人はそれだけ愛情があったということにもなる
だから個々に違うものとしても死ぬということは人間は納得しないしあきらめることも本質的にはできない、だから死後も死者のことを永遠にいないというよりいるものとてし扱うということがあり供養がつづいている、ただ親子でもその関係はまちまちだから忘れる人も関心もなくなる人もいるのである。
死ということは哲学では解決できない、宗教でしか解決できない、もちろん弁証法でも解決できない、そこに哲学の限界がある。死ななかったのは主、キリストしかいないとなる、お釈迦様死んだからである。
だから死を克服できる宗教はキリスト教しかないともなる
仏教では死を克服できない、ただ仏教には深いものがあり哲学とは違うものがある
無神論者が日本では多いけど無神論者でも立派な人はいる、むしろカルト宗教団体とか戒名仏教とか死者とばかりかかわる宗教は問題である。
日本人が仏教徒とかいうのは嘘である。ただ葬式するためにそうなっているだけなのである。葬式のための仏教なのである。
哲学にしても死者をどうみるかとなると死をどう解決するかとなると解決しようがない、生あるものはみんな死ぬとしかならないだろう。
ただそもそもそうした宗教とは関係なく人間は個々人でも家族でも共同体でも死というものをどう扱っていいのか?また生者と死者の関係はどうなのかということに悩む
死者が死者であることであることに納得しないのである。
墓があるときそこに実際は骨が土となり何もなくなっていた、ではそこに死者がいるのかどうかもわからないのである。でも墓には死者がいるとしてお参りしているのである。
つまり生者と死者は以前として墓を通じて結びついている、切り離されていないともなる死者でも全くないものとしたくないのである。、でもやがてその墓すらお参りするものがなくなるときもうその墓は捨てられ生者との結びつきが断たれるのである。
例えば死者というとき戦争で死んだ300百万人と生者の結びつきはどうなるのだろうか?
つまりこれもいくら死んだとしても死んだものとして生者と切り離して考えられないからどう扱っていいかわからないからそうなっている。
国に尽くした英霊として祀るというときもそうである。
戦争を経験した人は90以上でまだ生きている、その人たちは死んだ戦友のことを今でも思っているのである。戦艦武蔵が最近海の中から発見された。その無残な悲劇がNHKで放送された。生き残った者がそこで死んだ戦友のことを思い涙を流していたのである。
自分の姉も従軍看護婦で4年間シンガポールに今のマレーシアのジョホールバルにいたから死ぬときまで戦争のことを語り死んだのである。認知症になってもそのことだけは忘れずに死ぬまで語っていたのである。
そのことを叫びつつ死んだともなる、それだけ戦争のことは忘れられない記憶として残っていた。
そういう人は戦友が死んではいない、心の中で生き続けているのである。
ただそうした戦争経験者も死ぬと戦死者をその後の世代をどうあつかうかということはさらにむずかしい問題になる
自分の家族だったら母はまだ一年すぎたばかりであり生々しいとういことがある。
そして不思議なのは死者との結びつきがありその関係は強固になった感じもある
自分は家族が死んでから家族のありがたみを知ったのである。
そのことを書いてきた、誰も自分のことを思うものもなく病気でも他者は親戚でも責められるだけだった、それほど他者が非情なのかということでますます家族のことを思うようになった。
それから他者は金しか求めていないこともわかりそのことでも家族を思うようになった。母は自分が60までも食事の用意をしてくれたからである。
今になると全部自分でしなければならない、そしてがっかりするのは皿二三枚洗ってもらうのに金が10万近く払わなければないことである。これも自分が一人だということでしょうがないとしている
それは自分が介護しているときもそうだし病気になったときもそうである。
家に来た人は金を要求するだけで何もしてくれなかったのである。
それだけ自分のことを思ってしてくれる人は一人もいなくなったことで余計に家族のことを思うようになったのである。
今になると母に食事を作ってもらったら涙を流して感謝して食べるだろう。
今年も雑煮も食べられなかった、コンビニのインスタントの雑煮だったからである。
だから奇妙だけど死んでから死者に感謝しているし結びつきが強くなったというのも不思議だとなる
家族がいたありがたみが骨身にしみてわかったからである。
病院では見舞いもなく看護婦から虐待されたし何か自分に対して情をかけてくれたという人はいないのである。これほど他人が非情なのかということで家族への思いが感謝が深まったのである。
だから人間は家族でも死んでみてそのありがたみがわかるのである
それは妻でもそうだったり死んでみないといなくなってみないとありがたみわからない
それは人間はそもそも空気のようにあるものに感謝などしないのである。
それはこの辺が原発事故で故郷に住めなくなったことでずっと書いてきたことである。
失ってみてその価値がわかる、死んでますます家族で結びつき強くなるということもありうる、なぜなら今までは感謝もしなかったが感謝してその本当の価値を知って結びつきが強くなるということである。
原発事故で避難してもし避難した先でユダヤ人のように苦しめられたら差別されたりしたら故郷のことがどれだけなつかしく思うかもしれない、そして故郷あることがどれだけ幸せかと思うかもしれない、それは故郷に普通に暮らしていてもわからないことなのである失ってみて本当の価値がわかる、国だってもしシリアのようになって難民化したら国があることがどれだけ幸せなのかとなる
いづれにしろ生者と死者の問題は人間にとって深刻なるが故になかなか簡単には解決できない、ただ死者が全く無きものとはできないことは確かである
生者と死者は
生前より強く結びつく
その真の価値を知りしがゆえに
寒夜の星のように
星座のように結びつき
永久に輝く
タグ:生者と死者
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