2017年02月02日

戦友は特別なものだったー三陸会の記録より) (戦争しないものにはわからないことが多い)


戦友は特別なものだったー三陸会の記録より)


(戦争しないものにはわからないことが多い)


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それは故国への別れの挨拶か
残してゆく友の名前か
青春を惜しむ気持ちか

レールモントフ

戦争は何なのかというのがわからないのは体験しようがないからである。
敵でも殺してみれば戦争とはこういうことなのかとわかる、戦争とは人を殺すことを正当化されることだからである。
でも実際に戦場で人を殺してみたらどうなるのか?それでトラウマになりアメリカの兵士は病んだという報告は常にある

自分の姉は傷ついた兵士を看護していたのだから敵でも殺していない、だから戦争の本当の恐ろしさを知らない、経験していない、ただ戦友とは何かとなると姉は思いつづけていた。認知症になっても変わらなかった。
島根の人であり他にも一緒に働いた人とは交際があり自分の家にもきたことがあった。

そしてその島根の特別親しい戦友からもらった粗末な手作りの バッグを肌身離さず持ち歩いていたのである。認知症になると忘れるのだけどそれだけを肌身離さず持ち歩いていたのであるそれは戦友が作ってくれたものだから特別大事にしていたのである。
認知症をテーマにした「もがりの森」でも大事なものを袋に入れてあった、それを奪われたとき怒った、つまりその袋は人生の記憶がつまっていた。
その記憶が人生を生きたことになっていたのである。
だから認知症になると一番記憶に残ることを延々と話すのである。
今のことは忘れても昔のことは忘れないからである。

悲しかな戦友よりし贈られしバッグ忘れず持ち歩きしを

その女性は文学少女であり短歌を残している、多くの手紙を姉に書いている。
ただ姉は体育系であり気丈夫な人がそういう文学的なものは何もない

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(小林カツ)

このバッグをいつも持ちあるいていた姉

せききりてこみあぐる思いあふれ来ぬ中央病棟の洗い場辺り

マレー旅行によせて(中島淑子)

ここで洗いものしていたからこのように感じた、まず青春の四年間は長いのである。
それも尋常ならざる体験をしたからこういうふうにこみあげるものがあった。

ここで悲惨だったのは日本が負けたとき一時ジャングルに逃げたのである。
その時食べ物もなく辛酸をなめたのである。
病院でも傷を負って耐えられず自殺したとか何かあった、姉も赤痢にかかったとか過酷すぎたのである。そこは地獄だったのである。
この洗い場もアメリカのB29に爆撃されて現地の女性が死んだ。

戦争というとき記憶は別に膨大に残っているから戦争を何かを探るものはいくらでもあるまだ戦争を体験した人も生きている、おそらく姉の戦友ももしかしたら死んでいるかもしれない、最後は姉は認知症になり年賀状を書けなくなったから消息が絶えたから生きているかどうかわからない。
戦争の記録でも「三陸会」の記録を読むだけで結構な量になっている。これも戦争を語るものであり戦争が何であったのか知る具体的な資料である。

つわものの 看護(みとり)はげみし その乙女らは

今語りあり 三十年のちぢの思ひを 若き日の熱き心を

その乙女らはというときみんな20代の若さであり十代の女性もいたし死んだ人もいる。
今は看護師だと年配の人もいるがその戦争では20代の女性しかいなかったのである。
その当時看護師は優秀な人しかなれない、試験でもむずかしい、姉の場合は県の赤十字社に行き試験は東京で受けた、学校でも一番だったと自慢していた。
その当時看護師になれた女性は心身ともに優秀な人だったのである。
だから短歌を残した戦友も優秀な女性だった、今の看護師とは違った女性のエリートだったのである。
心身ともに強い心をもっていないとそんな戦場で耐えられないだろう。たから文学少女というものでもなかった。
姉はともかく強い女性だったのである。男も怖がっていたのである。
それも最後は認知症になり無惨に死んだのである。


戦争の事でレールモントフの詩で短剣のことを詩にしていたが日本兵でもやはり日本刀を大事にしていたことが「三陸会」にのっていた。


我が軍刀が生き残っているはず

新潟市 石田 啓

新潟医科大学を卒業したとき、親父が「日本刀は男の魂だ、これを見て家伝を思へ」
と家宝の肥前国忠吉の一刀をくれた

ところで招集以来肌身離さずもっていた軍刀、武器は任意に供出したようだが私は耳をかさずひそかにレンガムまでもちつづけ土葬した墓の横に一メートルの墓を堀り鍔とか目貫とか取り去り埋めた
この軍刀を戦後探そうとマレーシアに旅したが見つからなかったと書いている。

短剣の詩もそうだが軍刀はやはり侍の魂として日本軍兵士はもっていたのである。
それは侍としての矜持があってそうなった。

もののふの心と伝ゆ刀かなその跡知らず異国に埋もれぬ

戦後は日本軍が日本刀をぶらさげているのを何か嫌悪する風潮もあり否定的に見られていた。日本兵というのは肯定的に見られていない、ただ刀はただ武器ではなく魂だったいうとき侍だという自負があったとなる
このもののふの心は武道をしている人には伝わっている

結局戦争は肯定的には語れなくなった。その刀も異国に埋もれて見いだされなかったという事はその心も埋もれてしまったのである。
ただシンガポール陥落は日本にとって大勝利だったのである。欧米をアメリカ人すら捕虜にしたからである。だから白人連合軍に勝ったということは世界史ではじめだとかなりその歴史的意義を認める人はいる、そこは最も華々しい戦績を残した場所だったのである。アジアは欧米に蹂躙されつづけたのだからこれは快挙だったとなる。
今でもこの時捕虜になったイギリス人などが抗議しているのも変だとなる
アジアを侵略したのは欧米列強だったからである。
イギリスはインドを支配してビルマまでネハールも支配していたから英語が通じる人がいる。そこに七つの海を支配した大英帝国の名残りがまだある
それを敗ったのが日本がはじめてだったのである。
つまりシンガポールとかマレーシアのジョホールバルはその中心地域だった。
要衝の地だったのである。そこに四年間いたということは長かったとなる

この日本刀についてもこれを親からもらった人は医者であり代々つづく家柄であり優秀な人たちだったとなる、「三陸会」は医者と看護婦が主な人たちでありすると医者だから兵士として前線で戦い敵を殺したということはあまりなかったかもしれない、日本刀を大事にした人も医者でありそれで人を切ったということはなかった。
その辺がやはり戦争の生々しさを伝えていないとういことはあるかもしれない、実際は他の記録を見れば悲惨極まりないとかあるからである。

いづれにしろ戦争のことはまさにその心も異国に埋もれ忘れられるとなる
ただ自分の場合は姉が死ぬまでその戦争のことを叫ぶようにして死んだのでそれが戦争の記憶として自分に伝えられたのである。

戦争のことは忘れず我が姉の死して八年過ぎしもはやし

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