春の日(倒木はなお生きて森に還る)
駅前の自転車屋かな一軒のみ病とてもなお働きにけり
長々と貨物列車の過ぎ行きぬ病院の窓に枯野広がる
鉄道に貨物列車のみかけぬは原発事故に途絶えしを知る
津浪にも残る社の一つあり形見にあれや冬のくれかな
北風になお吹き鳴るも倒れし木に春の日さしぬ我が見て通る
駅前の自転車屋がありあそこは自転車を使うのでなじみである。
貨物列車を見たのは病院に家族が入院している時だった
長々と貨物列車がゆくときそれが病院に寝ている人とか介護している人とかがいて
何か重荷になる、その重荷というとき重荷を運んでいるように見えたのである。
その時貨物列車のようにみんな重荷となる病人とか介護される老人が運ばれれば楽だなとも不謹慎だが思ったのである
短歌とかでも短いから一つの歌でもどういう場所にいて心境で詠んでいるのかを知ると深く理解できるのである。
今日見たのは道の脇に倒れている木だった、まだ北風が唸り吹いていたがそれほどでもない、春の日がすでにさしている、その倒れた木にもその春の日がさしていた
人間は木でもそれも生き物だから人間のように見ているのである。
すでに自分も家族はみんな死んだけど介護して供養するとき、家族は死んだけど供養しているとなる、その倒木に死んだ家族をイメージする
そして倒木でもそれはやがてまた森に還元される、森の栄養となるのである。
そういうふうに連環した命として植物もある、動物でもそのように昔だったら見ていた
それは人間もまた同じように自然の命としてそのように見ていたのである。
何か倒木にもやさしいあたたかな春の日がさしている、それは死んだとしてもまだ倒木として生きている感じになるからだ。
人間の悲惨は骨となって何も残らないことである。その極端な生と死の断絶がショックであり受け入れられないのである。
倒木は死んだとしてもまだ生きている、それがやがて森の肥料ともなり循環する命を生きているということでその死は無駄ではないと感じる
その死は自然では孤立した死ではないのである。
こういうふうに見るのは田舎ではできる、あるところに長く住んでいると見れる、でも都会では見れない、森というものがない、死というのが何かそうした自然の中の死ではない一つの機械の部品が消えるという感じにもなる、無機質的な死ともなる
人間も自然の中の命の一つだということを自覚できないのである。
そういうことが科学万能社会を作ったともなる
原発のように毒がはき毒を残す、一万年もプルトニウムの毒が消えない、放射線をだしつづけるというのがそうである。それは自然の命のサイクルにはならない
もし炭を燃料にしていたりしたらこんなことにはならない、自然の循環、サイクルの中で生きていることになっていたのである。
では昔に帰れといっても江戸時代にもどれといってもむずかしい、でも人間も自然の命の一つでありそれに逆らうものが科学技術にありそれが原発事故になり致命的な結果になった、そういうことを田舎に住んでいる人は余計に感じるのである。
都会ではそもそも自然と切り離されているから感じない
でも都会でも自然なしでは食料も入らないのだから生きていけない
だから東京でも大都会で食糧不足になり自然とのつながりを田舎とのつながりを具体的に自覚される時がくる、それは地震とかの災害でも必ずくる
タグ:倒木
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