2017年02月17日

風の影響で毎日のように遅れる仙台までの常磐線 (駅は人が交わる人間臭い場所だった)


風の影響で毎日のように遅れる仙台までの常磐線

(駅は人が交わる人間臭い場所だった)


今日は春一番が吹いて風で電車がまた遅れた。最近はともかく風が毎日吹いて電車が遅れる、最初は3分とか4分とかだが50分とかになり運休になる場合もある
今日は特に風が強かったからそうなった。

一時間とか待つとなると急いでいる人、仕事している人は困るだろう。
阿武隈信用金庫の人が何か投資の講演会があると人を待っていた。
その時はまだ遅れていない、その後に遅れたのである。

銀行は銀行法において、株式会社であることが規定されています。株式会社である、ということは、株主に利益を還元しなければ存続できなくなりますので、銀行が最も優先すべき事は利益をあげること、ということになります。

一方信用金庫は、ある地域内の地主や有力者、そして地域住民が会員となり出資し、設立した非営利法人です。そのため、利益よりもその設立理念である「会員の相互扶助にり地域社会の発展」に重きをおいています

信用金庫としんきんと銀行の相違は何なのか、双相信用金庫とかあったが合併して五城信用金庫とかなった。阿武隈信用金庫も今回の津浪や原発事故の被害地域が主な地域になっていた。亘理にもあるが狭い範囲である。阿武隈という地域である。浜通り地域である。信用金庫と株式会社である銀行の相違はより地域に密着したのが信用金庫だとなる
銀行は株式会社だから利益をあげて株主に配当しなければならないが信用金庫は株主より地域に密着して産業を会社を育てるという役割になる
銀行は小さい銀行でも福島県全部に支店をもっているしその資本金の額も大きいのであるそれでも阿武隈信用金庫でも投資信託をしている、これは信用金庫ではしていないと思ったがしていたのである。

投資信託を銀行に頼んだか興味深く聞いた、もっとこの辺の経済のこと震災の影響を聞けば何かわかることがあったと思うがあそこでは長い話はできない、待合室だからである。でもそれなりにいろんな人が出入りしていてちょっとでも話すと面白いと思った。
特に今この辺は外部からくる人が多いからである。
その人は地元の人だった。
郷土史研究などというと歴史だけで好事家のようなものだと思うが実際は故郷全体のことに関与することである
だからそういうことをプログで追求してきた。ただそうなると相当な広範囲な知識が必要になり自分だけでは手に負えない、記者だと雑誌でもそういうことを追求している
福島県には二つの雑誌があるからだ。でも東電については追求できなかった。
なぜなら東電はマスコミならどこでも宣伝費を払っていたからである。
そもそも雑誌などでも一カ月一回福島県で出してそれで生計が成り立つのかとなるからだ
地域というときそれは日々生活している場所だから全国的なニュースとか世界的なニュースより関心がある直接的なものとしてじ
かに影響する場である。

それで原発というのはそういうものとしてあったが地元なのに関心が薄かったのである。それより関心が喚起されなかった。それはやはりた報道の問題があった。
報道の意義は宣伝費を多くもらっているから何も言えないでは地元の人にも役にたたないとなる、新潟日報だけが巻町が原発に反対したとき同調したということで評価されている福島県の報道関係では反対した報道はなかったのである。
それも怖いことだなと今になると思った。第一報道すること自体やはり権力を持たないとできない、新聞社とかテレビ局を見ればわかる、報道するにも会社をもち金がかかる
新聞社などはあれだけの紙を刷って配っているのだから金がかかる
とても報道する内容だけでは成り立たない、だから宣伝費に頼ることになるし聖教新聞でも刷って金を得ることになる、そういう所から入る金は大きいからである

でもそうなると報道は会社の悪でも真実は追求できないのである。結果的に地元の人でも今回の原発事故のように大惨事となるまで追求できない
日本は報道の役割は権力側につきすぎる、権力にこびるだけなのである。そういうシステムになっている、たから原発の安全神話が通っていたのである。
そもそも報道とはなにかとなる、そんなことを考えたのはプログを書くようになってからである。前はホームページを書くようになってからである
それまで一個人が報道することはできなかったからである。
まずインターネットは発信することが楽だし金が全くかからないことでみんなしている
そしてリアルタイムであるから報道局を個人でさえもつことができる

そして感じたことは今はyoutubeで個人でも放送しているのである。
そのyoutubeを見て思ったのはテレビに出るときは何人かが対話形式で話しする、そこは一人の個人の発言の場所ではない、何人かがコメンテーターとして発言している
そしてそれはテレビ局の意向にそって発言を許されているという感じになる
そこで一番力をもっているのは司会者なのである。
司会者が意見を言うのは本当はあってはならないことだが司会者が常に意見を言うからもう客観的報道は不可能になる、司会者の言い分を意見を言う場所でありコメンテーターが飾りとして呼ばれているようになっている
だからyoutubeで個人で発言しているのを見てこれは今までとは違うなと見える
有名なテレビに出る人が個人で発言しているのである。
そうなると十分にその個人の言いたいことが言えるし深いことも言えるのである。

鉄道の駅は意外と人が交わりあう場所であり生の情報を得る場所であることにきづいた。もともと鉄道が全盛期のときはそういう場所だったのである。人間臭い場所だったのである。
それで奇妙だけど阿武隈信用金庫の人はまるっきりビジネスマンであり標準語を話す、それは今では当たり前になっているが駅というのは地方にある駅ならなまりがでてくるのが普通だけど今は子供まで標準語の世界になった、その時何か地域的なものが失われているのである。なまりには何かあたたかみを感じる、標準語はまるで英語のように感じるのである。英語は世界の標準語にもなっているからである。

ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく 石川啄木

なまりが聞こえるような所が鉄道の駅だったのである。今は地方でも子供まできれいな標準語を話すのである。ビジネスマンになったらもう標準語しかない。
そこに何かあたたかみがなくなるのである。
そして奇妙だけど新地とか山下駅が新しくなり都会風になったときひなびた田舎の駅という感じではなくなった、それそれとして新鮮なのだが古い駅舎では昔ながらの人間臭いものを感じる、いづれにしろ自分は毎日駅に行って様子を見て案内したりしている
ボランティアの駅員になっている、何か自分には鉄道には旅が長いから思い入れがあるから鉄道にかかわりたいともなる

今日は春一番が吹き春時雨にもなった。日本の気候はつくづく変わりやすい、なんかいつも電車が風で遅れるとそれも結構長くなったり運休したりもする
すると川止めのような感覚になる、川止めだと一日も二日も待たねばならなかったからである。やはり人間は自然の影響からまねがれないということも未だにあるのだとしる
これだけ便利な社会になってもそうなのである。風の影響を受けないようには技術的にはできるがそれもまた工事が大変になる、技術が進歩してもやはり自然の影響をまねがれない、原発事故だって津浪という自然災害をまねがれなかったのである。
人間は科学技術がどれほど発展しても以前として自然の影響を受けるしその災害からもまねがれないものだと思った。


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