2017年02月21日

三本の老木が語ること(詩) (原発事故で故郷を喪失した老人を想い・・・)

  

三本の老木が語ること(詩)


(原発事故で故郷を喪失した老人を想い・・・)



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三本の老木

三本の老木はそれぞれ何かを語る

北風の吹く長き冬の日を

村に根付いて生きにし老木は語る

ここに生きたる昔を・・・・・


Three aged trees talk about something each

The long winter day when the north wind blows

I root in the village and make vigor and talk about the aged tree

It is ... here in old days as the vigor


今回の津波でも原発事故でも故郷が問題になった。故郷は何かなど普通は問わない、故郷を失って故郷を問うことになった。
故郷とは何かというとそれは老人にとってはそこで生きたということでありそこに人生が刻まれた土地だということがある。
故郷というとき農業をしていたときは八割も農民だったときは余計にそうだったのである土地に根ざして生きていたから当然だったとなる

今は農民ではない農民は一割にも満たない漁師でもそうであり山での生業でもそうであるほとんど会社員でありそれを象徴していたのが飯館村で今村を支えているのか菊地製作所だということでもわかる。農家が支えているわけではないのである
昔だったら燃料も炭だから炭焼きがどこでも行われていて山村もそれで生活していたのである。森林資源がありそれがエネルギー源となっていた。
そういう生活をしていれば余計にその土地と一体化していた。
それは万葉集に歌われたような自然との密着した生活であり歌が生まれた
だから故郷にそこに長く生きるものは愛着が自ずと生まれていたのである。

老人は故郷でも長くいた場所を離れにくいというときその土地に根付いた老木のようになっているからである。
そして老人はみんな昔を語る語り部になる、その語ることが老人の仕事にもなっていたのである。そして老人の語ることは次の代の人でも同じ土地で同じように農業をしていれば聞くに値(あたい)するものとしてあった。
つまり聞く価値があるものだったのである。つまり老人は昔を語ることでその土地に生きてゆくことの意味を語り知恵を教えていたのである。
だから老人は何も意味もないものとはならなかった。

それもみんなが会社員になったとき会社をやめれば昔を語るにしても会社のことでありその土地のことではない、それは農民ではないからである。
何か現代はそうして世代の断絶が生まれたのである。老人は役にたたない不用なものとされる、それは生活そのものが変わってしまったからである。
農業だけはやるな継ぐなと子供を殴ったということがあり極端にしてもそういう時代になったとき原発は歓迎されたのである。出稼ぎをしなくてもいいとかなったからである。 
それが裏目に出たというのがこの辺である。

人間が故郷に回帰するというとき鮭とかが生まれ川に帰ってくるのとにているきかもしれない。故郷にはそういう強い本能的アイディンティティをもつのかもしれない。
ただ故郷は生まれた場所ではなく長く住んだ場所なのである。
そこで生きたということを記憶されて語る場所である。
老人は最後に記憶に生きるのである。語り部になるのである。
自分も家族も全部死んだとき家族のことも語るようになる、死んだ人のことを語ることがまた勤めのようにもなるのである。
なぜなら死んだ人のことを語るとき死んだ人もここに生きるという感じになるからであるそれが故郷を失ったとき喪失する、そのことが精神的損害であり金では埋められないものがあった。賠償金は別な問題としてあるのだが老人が帰りたいとういときそこが生きた場所、記憶された場所だったからである。

梯立(はしたての) 倉橋川の 石の橋はも  男盛りに 我が渡してし 石の橋はも 

こういう場所だったのである。男盛りというとき青年時代であり壮年でありその時生きた記憶が生き生きとあり蘇る場所だとなる
ただ現代は広域的に生きているから会社人間だからその土地に密着して生活していないからまた違っている、だから故郷にそれほど愛着しないとういことはある。
なぜ川内村が七割りも帰還したのか?それはもともと老人の比率が四割とか高かったからである。老人は帰りたいとどうしてもなる、チェ ルノブエリでも老人は村に帰り細々として野菜を作り暮らしていた、そして医者もいないけど苦しみ死んでゆくようになる。
でも故郷の村に帰って死ぬというまでになる
それだけ愛着があったということにもなる、故郷が死に場所になっていたともなる
人間は最後はどこで死ぬのか死にたいのかというのも問題になる
老人はだからそんなことを思うとき復興には向いていない
死ぬことを考えていては復興できないからである。
でもそうなるのが老人では自然なことなのである。それが許されないということも原発事故がもたらした非情なことだったのである。




posted by 老鶯 at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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