2017年03月11日

国と地方の歴史を見直す (原発は国策であり地域を破壊した)


国と地方の歴史を見直す


(原発は国策であり地域を破壊した)


● 国と地方の歴史

国と地方の問題は人間の歴史がはじまってからある問題である。
もともとクニというのが一つのアイディンティティを育む単位になっていた
それは自然発生的なものでありだから自然と深く関係してアイディンティティ化したのがクニである。

会津嶺の国をさ遠み逢はな はば思ひにせもと紐結ばさね

この万葉集の歌の会津はクニでありこれはすでに大きなクニの感覚である。クニの前にサトとかムラとかがある。ムラは群れるからきてきるから人が群れるだけではクニにはならない、何か一つの連合体ができたときクニになる。
それは外国でも同じである。countryはクニのことだからである。

ここで注意しなければならないのはクニと国家は別物なのである。クニは自然発生的に生れたアイディンティティをもつものである。だからこそ文化的歴史的なものに根ざしている、歴史より文化に根ざしている、cultureはcultivate(耕す)から来ているからである。その土地に根付いて耕したものが文化だからである。

だから自然発生的に生れたのがクニであり何か親しみがある。方言では訛りでクニがわかるというとき方言はやはり文化的なものでありその土地に根ざして生れたものだからそうなる、だからクニに根ざしてこそ文化があり人間的なものとなる
国家というときそれはクニとは別物である。国家には非人間的なものがありまた仰々しいとういか威厳あるものとなる、英語だとstateなのである。
それは威厳あるものでありcountryとは全然違う、countryは田舎でもあるからだ。

ただ国家でも日本ならもともとヤマト朝廷というときヤマトという山戸という一地域のことである。それが拡大して日本になったのである。
だから奈良という地域に最初の国家をが形成されたとき

大和は 国のまほろば たたなづく 青垣山ごもれる 大和し 美し

青垣山とはまさね山が垣根としてある、山に区切られたものとしてクニのまほろばがあるとなる。日本は山国だから山で区切られる、盆地のような処をクニとして意識していたのである。
このクニの感覚は封建時代まで江戸時代までつづいたしその後もつづいている。
封建時代もその土地に根ざしているから自然発生的国の意識になる。
だから江戸時代までは多様なクニがあった、それは自然条件でもそうなったのである。

●原発は国家と地方自治の問題を浮き彫りにした

原発というのはこれはクニとしてあるもののなかに地方の自治体に国家が深く関与していた。なぜなら原発は国策でありそれはまたアメリカの強制としても日本に押しつけられたという側面があるからだ。
核戦略として原発を維持しなければならないとか日本の技術力を維持するために原発が必要だとかあったからである。
クニというより国家的意識が強く打ち出されたものだった。
東電でもあれだけ巨大な会社でも国の支援がなければ原発は建てられなかったからであるだからこれだけの20兆円もその後始末にかかるということに驚いた。その補償金の額にも驚いたのである。そんなに補償できるのかともなる
それは国策だったからできたのである。国家的事業としての原発だったのである。
国家がかかわるからこそこれだけの巨大事業が成される、補償もされたということである

でもそれだからこそクニという一つの自然発生的アイディンティティ化されたものは大規模に破壊されたのである。国家が対外的に生れた、外国の驚異、外国に攻められるという驚異から生れたというとき戦争になり戦争は最大の国家的事業でありそのためにこそ300百万人も国家のために死んだのである。
国家なければ家族もない地方もない、クニもない、ムラもないとなる、国家がなければ国の存亡がかかるときそれだけの人が国家のために死なねばならなかったのである
原発は確かにエネルギー政策としてある。でも火力発電所でもいいのだし他にもエネルギーが求められる、でも核戦略がありアメリカの意向もあり原発が作られたのである。
それは国家の政策であり一企業が利益を出すというのでもなかった
そこに原発の特殊性があったのである。

地方と国の関係はそれは人間の歴史がはじまってからある。原始時代になればクマ族だとサル族だとかイヌ族だとかトーテムがあり種族がありやがてそうした種族の統一の象徴としてトーテムポールが生れた。クニとクニの争いはどこでも常にあった。
それを統合するのがまた大きなクニである。会津はそうした大きなクニとして意識された領域だったのである。それは江戸時代でもそうであり今にも継続されるクニなのである。クニは自然と風土と一体化しているから文化的なものとしてアイディンティティ化している、国家は必ずしもそうはならない、だからアメリカとか中国とかロシアとかになるとその国が巨大になるから法治国家とか主義の国家とかなる。
民主主義と社会主義が違うようでもやはり一つのイデオロギーで国家を作るのはにている自然発生的国家ではない、だから何か人間的なものを逸脱してくる、それは戦争になることでわかる。戦争のとき一番国家を意識するからである。

●国策の原発により破壊された地方自治体

結局この国策により地方自治体は破壊された、復興でも防潮堤とか道路とかソーラーパネル事業でもそれが住民にとっていいものというよりは公共事業のようになされていて実際の住民の復興にはつながっていない、住民の自主性がないやはり国策としての押しつけだと「地方創生の正体」では指摘している。
この本では昔のなつかしいクニという意識を基本的にベースにしているのである。
そこが自分も共感するのである。自分も相馬藩というクニの中でも自然発生的クニとしてのアイディンティティを追求してきたからである。
それはその土地の山でも樹でも石でも川でも海でも一体化したものとしてのアイディンティティの形成なのである。

そういうものが国策によりやはり原発事故のあとも破壊されているのである。
もちろん白砂松原の景観は人工的なものだと津浪で意識した。景観を破壊したのは自然自身でもあったという驚きである。
ただ松原も人工的なものだったから自然が破壊したともなる
元の自然にもどったともなる、それが馬鹿高い防潮堤を建てたり何か巨大な公共事業で景観が破壊されたし不自然なものとなる、ソーラーパネル事業でも景観が破壊されるだけではない、飯館村で反対運動が起きたように災害の要因にもなる
自分は何か景観にこだわる、なぜかというと日々そこに生活しているからそうなる
それで屋形の処が土をとってむきだしになったのを毎日見ていると嫌になった。
それは馬鹿高い防潮堤を見ていたら嫌になるだろう。本当にそんなものが必要だったのかともなる、それは不必要な国策による公共事業だったのかともなる
それで女川は防潮堤を作らない街作りをしたのである。
それでも人口流出が大きいからいかに復興が困難なのかわかる

この辺でも人口流出があり小高でも浪江でももう避難した人は10パーセントくらいしか帰らないのである。浪江でも廃炉事業のための宿泊施設の街として復興させるというときそれが町なのか?廃炉事業が終われば生活の糧がなくなり町が消滅する
廃炉事業だけに特化されたものが町なのかとなる。
町であれ村であれ千年とか継続してきたし継続するのが町であれ村であり市なのである。だから昔のクニの復興が問題である。それはやはり漁業でも農業でも林業でも総合的な場としてのクニの復活が必要になる。
国家からのおしつけとしての事業には問題があるとしたとき自分もそう思う
またガバナンスがなくなったというとき小さいコミニュティなど村とか部落でもその上の町とかのガバナンスが自治体が喪失すると維持できないとも言うのもわかる
小高はまだ南相馬市のガバナンスがあるが浪江とか双葉とか大熊や富岡でももう失っている

これも結局現代の社会が広域化しているグローバル化している、田舎でもそうである
村が自給自足していた時代とは余りにも違うのである。
その結果として国家とか巨大会社とかが田舎にもかかわっている
炭焼きでエネルギーを供給していたとき中央の国家にも頼らない自給自足の生活していたから都会でどういう生活をしようと自分たちには関係ないとしていたのである。
そういう生活ができていたのである。

富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて 大和田建樹

富んでいる都会のことなど知らないことだ、炭焼きの煙は絶えずのぼりここに自足した生活があるとなっていた。
この時代とあまりにも違う社会になったからこそこういう問題が起きた。
でも人間は過去には戻れない、過去は参考になってもでは未来はやはり別な未来を志向する、だからエネルギーだとソーラーパネルとかなったり風力とか志向したりする
でもそれもまた自然破壊であり同じことの繰り返しだなともなる
いづれにしろその土地から自主的にわきあがるものがないと復興はできない、国家頼りではできないというときそもそもクニの形成とは何なのか?
そういう根源的な問題も問われているからむずかしいとなる


タグ:国と地方
posted by 老鶯 at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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