グローバル化経済でも人を入れるのには覚悟が必要
人間はモノではないし機械でもないから問題が起きる
世界分業ということは、生産地域が偏在することを意味します。生産地域が偏在した場合、その地域の生産が何らかの理由で不可能になった場合、その影響は全世界に広がります。たとえば穀物の生産をアメリカに依存していたとして、アメリカが大干ばつに襲われて穀物がほとんど収穫出来なかったらどうなるでしょう
グローバル化経済の問題はいろいろ指摘されている、それは世界の現実となっている。
世界の分業化というのもそうである。
そういうことは国内問題としても起きてきた。
例えば江戸時代は米が伊達藩では商品作物として作り江戸に船で石巻とかから出していた米が商品作物化してそれが飢饉を作り出したとかある
米は売るものとなったとき地元では高い買いないとかなる
世界的商品作物となるとそれは世界中で起きている
東南アジアではエビを養殖して日本に輸出しても地元では食べないとか、コーヒーの産地ではコーヒーばかり作って畑でいろいろな食料を作らないので飢饉に見舞われたとかあるグローバル化資本主義にはそうした矛盾が生れる
基本的に自分が探求したのはクニとしての生産文化共同体の中で生活するというのが人間の自然な姿だと追求してきた。クニというときグローバル化経済になれば日本国となるがこれにしても十分大きいし自給できるものなのである。
果物だってそれなりに日本ではとれるのである。そうしたもともと地産地消から成り立っていたのが社会である。
それより村という単位で自給自足してきたのがもともとの人間の生活だったのである。
グローバル化経済というのはそういう人間的な経済からはみだした異常な世界である。
そこから環境破壊とか何でも様々な問題が生れて世界がアメリカでも移民を制限するようになったのである。
要するにグローバル化経済の一番矛盾がわかるのはヒト、モノが自由に出入りするというときモノだけだったら余り感じない、いくらバナナが安く入ってきてもそのバナナを作り出す人間の苦労などわからないからである。それは国内だってそうである。
ところが外国人が入ってくると人間が入ってくると全然違ったものとなる
ネパール人でも入ってくるとモノではないから人間だから様々な人間的なことをその入ってきたヒトから付随してくるのである。
その人の家族はどうだとか、その人がネパールでどういう暮らしをしているのかとか宗教が違うと文化の相違もあるし食べ物でもなんでも違うからそこから衝突も誤解も生れる
ヒトが安い労働力として機械のようにロボットのようには使えないとういことである。
日本にとたら格差を感じるしやがてなぜ自分の給料は日本人と比べたら安いのだと不満になりそれが治安の悪化になってゆく
ネパール人が日本で働くというときネパール人がどんな生活をしているかを知ると知らないではまた違っている、自分は登山したからあんな高い山の上で何を食べて生活しているのかと思った。裸足で歩いているのも驚きだった。ボールペンもない村である。
その差が大きいから理解できなくなる、でも自分の子供のときは水道もない、電気も裸電球一つくらいで燃料が炭だったというときネパールの暮らしもある程度理解できた。
昔の生活でも江戸時代でもある程度理解できたのである。
葛尾村などは戦後十数年してろやっと電気が通ったとかある、電気がない時代があった。もちろん家電などなにもない時代があったのだ。
洗濯でも近くの小川でしていた、それは自分の家でも町内でもそうだったのである。
そういう生活をしていればネバールの山の中の生活も理解できる
もうそういう生活とかけはなれているから理解できなくなった。
でも昔の生活を知りたかったらネバールの山奥に行ってみればわかる
そこには万葉集に歌われた時代に帰るともなるからだ。
自分は通りすぎただけだけど本当にそうである。万葉集時代を実感できるのである。
グローバル化経済というときヒト,モノが自由に出入りするというときヒトが入るということは必ず問題が起きるしまたヒトが入らなければグローバル化とは何か理解できないのである。
それで労働者だけではない観光で外国人が大量に入ってくるときそれを感じる
モノではないヒトが入ってくるから人間の交流が生れる
白馬村のおばさんが日本人のスキー客が来なくなり外国人相手となり習字を教えたりしている、英語も覚えて教えている、そして一番印象的だったのが外国人と抱き合って別れを惜しんでいたことなのである。
その姿は経済的に日本が苦しいからもう一度来てくださいねという願いもこめられていたのである。
そもそも日本人の習慣ではあんなにおばさんでも若い男とだきあうなどしないのである。あの映像からは言葉ではわからないものを感じた
そこまで日本人も苦しくなりしなければならなくなったのかということもある。
でも反面そこには人間との交流があるということも感じたのである。
モノだけ入ってきてはそうした人間の交流はないのである。
だから労働者でも外国人が入ってくると人間の交流が生れる
でも人間だからこそやがてなぜ日本人と格差があるのだと不満になってくるのである。
結局人間はモノではない、人間が入ってくれば相手を人間としてみて人間として交流するいくら外国人でも相手が人間なのである。家族もあるし人間的感情もあるしそれは人間であれば同じなのである。
人間だからこそ差別されたり格差がある社会には耐えられないとなるのだ。
それがグローバル化経済では露骨になる、それはネパール人のような人が入ってくれば余計にそうなる
これは一体なんなのだと自分たちの国の生活と比べるからである。
ただカトマンズとなると外国人としっちゅう接しているから違っている、山奥に入ると全く別世界になるからだ。
逆に人が入るということはそこに人間的交流が観光できた外国人のように生れる
だから言葉がわからなくなもあんな抱き合って別れを惜しむということは言葉ではない人間と人間の交流が生れているとなる
いづれにしグローバル化経済はもうある程度はさけられない、そういう世界になっているそのいい面とは悪い面を世界のどこでも受けざるをえないのである。
こういうことは別に国内でも普通に起きている、それを一番感じるのは家にお手伝いさんとかヘルパーとかでもいい入ってくる人である。
そういう人は家族のように待遇されやすいのである。そしてあからさまに暮らしの比較がされる、こんな贅沢しているのか、こんなものを食べているのかとか差があると不満になる、それで大金を盗まれたとかいろいろ自分は経験した。
だから自分はそんな金持ちでもないから十分も働かないのに雇うのが嫌になっている
そのために費やす雇う方の苦労が多いのである。
実際に使っているというより使われている、それが実感である。人を雇うということはこれほど大変なことである。
そして生活相談もしてきて絶えず金を要求される、それにも応じなければならない
家族の一員のようになってしまう、生身の人を雇うとういことはそれだけの苦労がある。これは本当に外国人でも同じなのである。ロボットのようには雇えない
その一人の人間のバックには家族もいるし文化も宗教の相違などもあるしいろいろなものとかかわらざるをえなくなるのである。
そこには確かにいい面はあるのだがそれは安易に安い労働力として受け入れることはできないものがある。それを覚悟していないとやはり世界で起きている移民の問題がわからないのである。
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