2017年03月30日

自治が問われた原発事故周辺 巨額の国からの補償支援金は自治体の復興に使われなかった


自治が問われた原発事故周辺

巨額の国からの補償支援金は自治体の復興に使われなかった

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今日山梨の駅で話した人は結構いろいろ要点をついたことを言って共感した。
何か病気になって仕事できないので医者にみてもらいにきていた。
除染の仕事をしていた。

「この辺では復興として国からおりた金をみんなゼネコンとか暴力団とかに流れて肝心の市町村を復興するためには使われなかったんだよ、区長でもなんでもみんなでその金を使って復興しようとしなかった」
「その国からおりた金でもみんな個々人におりたので個々人が勝手に使い町全体とかの復興のために使われなかった」
「除染費用など自治体で使えば良かっただよ、そうすれば市町村の復興のために新しい街作りのために使うことができた
除染でもこの土地の人がやりそれを復興の街作りに回せば良かったんだよ」
「それはいえるな、結局この辺では6年間住民は何もしなかった、ただ個々に補償金をもうらことしか頭になくなった、それで家族でも地区でも市全体でもばらばらになってしまったんだよ」
「俺は飯館村で除染していたけど石ぶつけられたんだよ」
「ええ、なぜ、そんなことをしたの」
「その家は補償金はその時そんなにもらえない所だった、隣の家は高くもらっていたとかで頭にきて除染している人が怒っていた」
「そういうことはこの辺ではあった、国で放射線量を計り補償金を決めた、それでどこでももめた、地区でも隣がもらってこっちはもらえないとかもめた」
「それより自治体で一括して除染費用をもらって自治体主導で除染すれば良かった
そして復興のための街作りに使えば良かったんだよ」
「それは自分も感じていた、個々人に補償金もらったらみんなかえって町を出て外に家を建てたよ」
「莫大な補償金とかは街の復興のために使うべきだったんだよ」

この人の言っていることは全うだった。飯館村で除染している人に石をぶつけているとういことは飯館村でも補償金で分断されていたのである。今でも大きくは二つに分断されている、補償金をもらって外で生活再建する派と残る村長派である。
この辺は事故後ずっと補償金でもめて分断されてきたのである。
家族すらその一億円の補償金でもめて分裂したとかもある、額が大きくなると奪い合いになる。

その人が言うには区長でもいいからともかくみんなが集まって市町村のために全体の復興のために使うべきだった、そういうふうな仕組みを作るべきでもあった。
一括して自治体でも除染費用を受け取ればそれを極力自治体の力でやればその金は除染だけではない市町村全体のためにも使われたし自治体の人々が俺たちが復興しているんだという気持ちなり復興に精神的にも通じていた

ところが実際はほとんど6年の間住民は何していたかといえばパチンコでありギャンブルに興じていただけなのである。その時精神は荒廃して復興など関係なくなっていたのである。そして補償金しか興味がなくなっていたのである。
もし除染でもしていたら自分たちの土地を自分たちで除染している、復興しているんだという前向きな気持ちになったのである。全部でなくても自治体主導でしていればそうなった、一部では除染もそうしたところもあったがほとんどはゼネコン主体であり地元住民は何もせずにパチンコきギャンブルしかしていないのである。

南相馬市だと小高でも南相馬市内の仮設に住んだから近いのでできたのである。
でも実際は補償金をもらうことしかなくなった
それよりも除染だけではないなにかしら自分たちで復興しているんだというものがないと精神的にももう復興などどうでもいいとなってしまった
ただ補償金をもらえばいいとういうふうになり復興の気力もなくなっていった
だからいくら国から巨額な金が出てもそれが有効に回らなかった。
地区でも市町村単位でも補償金でもめて分断されたのである。

つまり民主主義の自治がなくなっていたのである。みんなでこの困難に立ち向かう下からの力が喪失した、自治体というとき自ら治めるということである、その自ら治めるがなく国からの一方的な指導しかなくそれが自治させなくさせたのである。
それは国だけに責任があるのではなく強力に自治体の住民が結束して立ち向かうことができなかったからである。

ではなぜできなかったのか?
それは震災前からすでにそうした原因があった
それが原発事故を通じて明確化されたというだけだとも見える

農民→農業したくなかった→土地は汚染されて農業はできなくなった
商店→シャッター通り→やめたかった→補償金が入ってやめた
若い人たち→田舎町から出て行きたかった→補償金もらって都会へ出た
若い妻たち→姑といたくなかった→別々に暮らせて良かった

何か前々からこうして田舎ではそういう状況があり原発事故がそれを促進させたのである
いづれにしろ復興というときこの辺では町でも村でも全体の復興には向かわなかった
みんな個々人が補償金をもらいそれを個々人が利用して町全体の復興には向かわなかった精神的にも一致して復興に向かわなかった、復興というとき本当は一年くらいはしかたないにしてもその辺からすでに何らか個々人が復興のために動き働いていないとできなことだったのである。その復興は個々人は故郷が出て家を建てたりして個々人の復興のために6年は費やされたのである。
6年すぎたらもうそうして若い人は流出してもう帰らない、もともと町から出たいということもあり他の都会で住みやすい所で生活しはじめて6年とかなると境遇も変わり簡単に元にもどれないし故郷の復興には関係なくなっていたのである。
人間は6年くらい音信不通になると相手のことがわからなくなり誤解が生れる
6年はやはり短いようで長かかったのである。

ともかく様々なことが問われたが自治体が自治がなかった、その自治とは市長とか議員の自治でもない、村民の町民の市民の自治がなかった、下から押し上げる力が不足していた補償金を要求するにしても個々人ではなく町全体を復興させるにはどうするのかということでその活用を議論すべきだったのである。
そしてその山梨の人が言うにはそうした新しい街作りをしないと若い人も住まない、そこに希望がないから住まない、そして全体が衰退してゆくというのは本当だろう
ただでは都会的な街がみんないいかといったら嫌な人もいる
自分の価値観は性分は都会向きではない、静かで人がいない方が落ち着くのである。
でも一般的にはそうではないから街が衰退してゆくことはいいことではないのである。



メディアが報じない原発禍の街の真実 <第6回>4人世帯で1億1000万円…賠償金で家族がバラバラに(日刊ゲンダイ)

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水俣病でもここと同じことが起きていた、補償金しかなくなったのである。
何か復興もない、昔の村は全くなくなったとある。


市町村でも全体が喪失したことが深刻だった (復興には個々人ではなく全体が一致協力しないとできない)


補償金、義援金で南相馬市の一体感は喪失 (原町の人が義援金も鹿島区に払うなと言うことの傲慢)

過度な原発避難者への援助がかえって不和をもたらし復興させなくした (内村鑑三の指摘の再考)

posted by 老鶯 at 15:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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