春時雨(原町の駅前通りを歩む)
原町の通り歩みて春時雨
春日さす通りに鳩や歩むかな
原町の通りを歩み柳かな店を見につつ帰りけるかな
昨日は浪江を歩き原町により食事をした、それは原町の駅前通りだった、ただその食事はエブフライとかだったが味は良くなかった、チェーン店で作るのとは違うプロが作るのとは違う味だった、それは家庭料理の域をでていない平凡なものだった
やはり揚げ方がうまくできない、料理は自分もしたがむずかしいしめんどうなのである。だから自分は未だにまともな料理ができない、これも結局才能だった、向き不向きだったどんな人でも何でもできるわけではないのである。
人間は何かができる得意だとしたらその他のものはできないともなっているのだ
原町の駅前通りはめったに歩かない、自転車で六号線の道の駅にある方に行くからであるそこで用をたしてしまうからである。
でも街に来る楽しみは通りを歩き季節を感じたり買物することである。
通りを歩むのとイオンとかで品物だけに囲まれるのとは違う
通りを歩むとやはりそこに自然を感じるのである。
昨日は晴れていて本当に春時雨だった、春時雨は結構経験している、なんか雨すら甘い感じがするのである。通りを鳩が歩いているのも平和である。
歩いて経験する、歩いて見えるのものが違ってくる
そして現代はこの歩くことが極端に喪失した時代なのである。
ただ通りでも車は通りすぎて行くだけだからである
歩くことは人間回復になる、本来の五感をとりもどすことにもなる
だから通りが廃れたけどこれからまた見直されるかもしれない、高齢化社会になると車を利用しにくくなるからだ
ただ原町の通りは狭いし歩きにくいのである。相馬市は歩き安いし新しい通りを作った
だから歩く楽しみが他よりはあるとなる
城下町の雰囲気がそれなりにあるともなる
本当は通りでも街でも改革しなかぎり人を寄せつけることはできないだろう
旧来の通りはもう時代にあわないからである。
でもそれには相当な改革が必要になりできない、だからかえって津浪で街全体が喪失したような所では新しい街が作りやすいということもある
新地駅周辺とかはそうなった
通りの復活は旧来のままではできないからである。
靴屋で買物した、いい安いぴったりの靴があったのは意外だった、品揃いもいいものだった、いつもイオンとかの靴屋で買っていたがあそこにはいいものが置いてあった
要するに買うつもりではなかったが通りを歩いているとのぞいたりするから買ったりもする、つまり街には人の流れが必要なのである。
そして歩く楽しみがある通りがあればいいとなる
図書館などが駅前にあるのはあっているかどうかわからない
図書館はかえって閑静な郊外とか森の中にあるような所がいいかもしれないからだ
第一じっくり勉強するには本を読むのでもそういう雰囲気が必要だからである。
ただ自分は図書館に10年くらいほとんど行っていない、その時間が今でも家事は追われなくなったからである。
それにしても朝日公園の通りの店の裏が廃屋化していたのはまずい
あんな街の中心があのようだと荒廃している感覚になる
正直駅前と通りは魅力がないのである。ただ春時雨とか自然を感じるというのは違っている、若い女性だったら街をさっそうと歩きたいとかあるだろう
イオンだとかただ買物ということしかないからである。
通りとは街とは商品だけではない、人を見せる場所でもあるのかもしれない
そういう機能が街にはある通りにはある、だからこれから見直されるかもしれない
人間は買物だけではつまらないとなるからだ。
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