2017年04月18日

落椿の里(橲原をたずねて)



落椿の里(橲原をたずねて)

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夕日さし土蔵の壁や落椿

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立目石



夕日さし土蔵の壁や落椿

この村に子安神社や春の暮

橲原の名もなき墓や落椿

橲原の渓流に和して夕鶯

渓流に声をみがきぬ夕鶯



滝響き高きに咲きぬ山桜夕日のさして風に吹き散る

夕日さし散りし椿や橲原に名もなき人の静かに眠る

渓流に鶯鳴きて橲原の夕ぐれあわれ山桜散る

橲原に御堂の一つ夕ぐれや枝垂桜に暮るる道かな

立目石夕日のさしてここにあれ渓流のひびき春の日暮れぬ

橲原に一軒隠され家のありたずねてあわれ春の夕ぐれ

橲原の木を柱にしその家に我が住む久し老いにけるかな

帰りきて待つ人なしも我が家かな春の夕星(ゆうづつ)一つきらめく


橲原にひさしぶりに行った、滝の所までは行ったがその奥には暗くなって行けなかった。あそこも放射性廃棄物場になった所があり風致が乱された
ただこの辺では人が住まなくなったというところはない、ただ八木沢峠の麓の家は住まなくなった、それは川をさかのぼったずっと奥である。

橲原(じさばら)というのは不思議な場所である。栃窪とも違う、狭い隠された山間の中にある小さな村である。この村でも江戸時代からあった。たいがい日本の村は江戸時代からある。
そもそもいつも思うことはこうした小さな村が日本には多い、そうしたらどうして暮らしていたのかということが不思議になる、橲原だったら木材資源があり炭焼きをしていたとかは山村だったらどこでも同じである。田畑はあるにしても狭いからその村で食べるくらいはとれた。あとは炭焼きとかで現金収入を得ていた。
炭焼きというのがあり生活できていたのかとなる

自分の家はその時まだ外材が入らないので姉が同級生がいてその人が橲原に住んでいてキリでありその人に木材を選んでもらい買い今の家を建てた
こういうことは戦後まもなくは普通だったのである。
外国は関係ない経済だった、森林でも森林鉄道が網の目のように張りめぐらされていたよように木材であり石材を蒸気機関車で運んだのである。
それは主に東京に運ばれたのである。ただ外国と関係しているというときアメリカに絹製品を売るために養蚕が全国でどこでも盛んでありそれは外国と関係してそうなっていたのである。それが外貨をかせいで外国の資源を石油なども輸入していたとなる
だからその時も外国と関係しないということはなかった
でもその絹製品を生産するのは養蚕だから農業だったのである。
だから山村でもできたしどんな辺鄙な所でもできたのが養蚕だったのである。

ともかくそうした国内経済とか自給自足の村とかに成り立っていたときはそれぞれのつながりが生活の中であった、そういうことは江戸時代から万葉集時代までそうだったし戦後十年くらいまではその延長だったのである。

天皇の御製歌(おほみうた)一首

あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室(やど)は座(ま)せども飽かぬかも

「黒木」は皮のついたままの木のことである

橲原の木を柱にしその家に我が住む久し老いにけるかな

こうなるときやはり生活の充実感を感じる、外材だとそれを感じにくい、それは食糧でも地元からとれたものを食べているのが充実感があるけど外部から入るのが普通だから昔とは違っている、米でもそうだからそこが昔と一番違っているのかもしれない。
熊本地震でも橋が壊れて孤立する村ができた、今でも不便なのである。
今は流通がたたれると生活できないとかいう人がいたが本当にそうである。
あらゆる物資が村や町の外から入ってくるからである。外国から入ってくるのも普通だからである。
そういう生活は便利でも何か不安があり充実感がないのである。
その不安とは何かの異変が起きて外国からは物資でも入らなくなるという不安なのである

橲原は戦後やはり小池ですら戦争の引揚者が開墾に入った人たちがいた。だから開墾に入った人たちがいたかもしれない、ただ狭い所だから飯館村のようには開墾する土地がないからわずかだろう。あの名もない石くれの墓は明治時代からのものである。
なぜあのような墓なのか?普通でも墓を作ることは金がかかるから簡単にできなかったのである。だから墓でも今とは違って粗末なものが多いのである。
まず五輪の塔の墓は武士のものであり庶民はそんな立派な墓は作れないのである。
庶民は江戸時代は墓自体作れなかった、村のホトケッポという場に共同で埋めていたのである。
死者が眠る場所にふさわしいのは山である。だから山にもともと死者を埋めていたのである。
それで万葉集にも死者は山に眠っているのである。その山で死者に会いにゆくということがあった。
海側に墓地があるのは何か今回の津波のように向いていない、波の音がするし落ち着かないのである。

橲原の不思議は隠されたようにある村なことである。今は別に農業しているわけではないみんなどこでも会社員である。ただそこに田畑があり一応農村という外観があるとそこから昔を感じるのである。
だから放射能騒ぎがあってから田畑が作れないとか放射性廃棄物場になるとかそれで乱されたのである。この辺はまだ人が住めるし住んでいるからいいのである。
全く住めなくなった所がありそこは廃村になってしまったからだ。

橲原は落椿の里である。あの名もない墓地の所に椿が散っている、それがなんともあの場所にあっている、そういう場が田舎にはある、その場独特の雰囲気である。
それは新地でもそうであり飯館村でもそうであり何かその村特有の雰囲気がある。
それが放射能騒ぎで乱された、飯館村はソーラーパネルの村になったからそういう雰囲気がなくなった、それが一番自分にとっては悔しいとなる。
そのことで怒りを感じるのである。
例えば都会などは東京でも何か地震でも戦争でも破壊されたときそこはもともと自然が存在しないのだからその跡は無惨でもそんなに感じないかもしれない
そもそもあのような煩雑な場所に人間が住んでいることが異常に思えるのだ。
感覚的におかしくなってしまう、若いときはあのような都会の方でも良かったのである。田舎はなにもないものたりないものとして嫌っていたのである。

とにかく元のような平安な村にもどることである。それは橲原だけではない、避難区域になったところでもそうである。そういう村が消失したということは大きな損失なのであるそして放射性廃棄物場になりソーラーパネルの村になるのも困るのである。
海岸側はある程度はしかたないだろう。山村までソーラーパネルになるのが嫌なのであるでも飯館村ではなってしまった。橲原にはないが原町でも奥の方にソーラーパネルが設置されていたりする、それが数は少なくても嫌だとなる

それにしても家族が待っていない、それでも我が家なのだろうか?
家族がいないという経験もまた不思議である。介護していたときはやはり家族がまだいたから違っていた。がらんとした大きな家に一人いることが何か違和感を感じる
淋しいということもある、でも組でも四人は自分と同じく一人暮らしであり大きな家に住んでいるのである、一人は女性なのである。そういう独居老人が増えているのだ。
そこに問題も起きるのである。
何か家族がいないと誰かと話したいとかなってくる、それでスーパーであれ人ごみに老人が行くという気持がわかる、自分も家族がなくなってから人がいるところに人と話したいとなり駅に行ってボランティアしている、そこで人に話しかけているのである。
それを嫌がられることもあるが外からきた人には案内ということがあり用があるからいいのである。

今年の春は桜が散るのが早い、山桜さえ散っていた、山桜は染井吉野より遅く咲くがもう散っていたし船岡の千本桜も散っていたと車で行った人が言っていた、全国的にも桜が散るのが早かったことはまちがいない、今年は外に桜を見に行く前に散ってしまったとなる

タグ:橲原 落椿
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