相手の価値を認めないと共同はできなくなる
(弱みをもつと人間は正常心を失う)
鹿島駅前の鈴木食堂に行く人がいる、ちょっと離れているので場所がわからない、離れているといってもすぐ近くだけとはじめての人には場所がわかりにくい、それで若い女性が来たので教えた、時々そうした案内がある。
何かそれだけでその若い女性は帰りもあったからありがとうと言っておいしかったというそれだけで感謝されるのかというのも意外である。
何にも言わない人もいる、そして今日頭に来たのはそんなことしても無駄とか必要ないという人である。
その人は畑をしている、でもその畑から何かもらえればいい、何にももらったことがない苦情だけは聞いているし農業のことを理解することにはなる
考えてみるとそういう畑をしていても誰も感謝しないことの不思議である。
それは別に金にならないことでも有益である、荒地にしておくよりはいいからだ
でもなぜその女性が駅で自分がしていることを認めない、無駄というときどういうことなのだろうかとなる。
その人には相当に援助しているけどその仕事は自分でもできるから必要ないのである。
今になると自分は常に弱い立場だったから理不尽なことでも不満でもどうにもならなかった、結局その弱さに常につけこまれてきたのである。
弱みをもつと結局不満でも何も言えないのである。
だから借金している人はその弱みにつけこまれる
それか人間の悪質さである。その人もまた常に弱い立場にあり苦しんできた人ではある
道案内しただけで感謝されるのにその人は無駄とかしなくてもいいとか言うときどうなるのか?
相手のしていることの価値を認めないときどうなるのか?それは金銭の問題ではない
むしろしなくてもいいことに金を払っている、同情もしてきた。
しかし自分が駅でしていることを無駄だとかしなくてもいいとか言うことは何なのだとなる
そうなら道案内して感謝されるだけでもそっちの方がましだとなる
金も払う必要がないからだ、その人は別にしなくてもいいことで金をもらっているともなるからだ、その金でもシルバーセンターのような安いのならいいがそうでもない
その人は主張する女性だからいい面がある。
しかしこっちでは金を払っている、でもそれは当然であり感謝などしない、仕事していると思っているからだ。それはしなくてもいい仕事なのである。
それなら道案内して駅で案内して感謝される方が自分にとっては気分いいとなる
人間はボランティアしている人でも何でもその人のしていることを否定されたらどうなるのか?
ボランティアなど格好つけているけど無駄なことが多いんだよな、自己満足すぎないんだよなとか見る人もいる、自分もそういうふうに見ている面はあった
でもボランティアにしてみれば全く自分のしていることを否定されたことになるから怒りにもなるだろう。
なぜなら実際に感謝している人がいることもある。他から見てわからないからだ。
ある人から見れば詩など書いても絵でも理解しない人には無駄だとなる。
でも資本主義社会では金になることは価値が認められたことなのである。何でも売れなければ金にならなければ価値がないものとみなされる社会である。
でも相手がありがとうということは価値が認められたことなのである。
それはささいなことでもそうである。
だからそんなことしても役に立たないということが納得いかないのである。
ともかく自分は介護はじめてから十年間は弱みにつけこまれてきたのである。
なんか今は確かに一人ということ自体弱みではある。でも今は他者に頼らなくても一応自分でできる。介護するとか病気だとか金がないとか人間は様々なことだ弱みをもつ、するとその弱みにつけこまれて奴隷化されるということがある。
病院では医者とか看護師に何も言えないというとき病気であり弱みをもつからである。
そういうことが世の中には常にある、相手が弱みをもつことはその人の上に立てることになるからだ。何か何でもそうなると要求しやすいのである。
いづれにしろ道案内でも感謝している人がいるのにその人はそんなの無駄ということは何なのだろうとなる、それなら感謝される人に尽くした方がいいとなる
自分はいつのまにか奴隷化されていたのである。何も言えなくなっていたのである。
それが今になると別に頼らなくてもいいとなると弱みにつけこまれる必要もないとなる
なんか介護などしていると人間が異常化してくる、病気になっても借金しても他にいろいろなことで人間は正常心を失ってしまうことがあるだろう。
戦争していれば人が死ぬの当り前だからそういう異常な環境で正常心を失うのである。
それも怖いことである。夫婦でもDVなどでもそれが日常化して慣れてそれが普通だとなるとしたら怖いとなる。
弱者化されることに気づかない人もいる、たいがい人間はいいように使われるのが普通である。カルト宗教団体に入るのも弱みがもつからである。左翼関係でもそうであり貧困ビジネスもある。極端な貧乏をとりあげてそれで社会に訴える、それが金集めの手段にもなる
人は何でも人を安くいいように使いたいのである。それは結局人間がなんらか弱みをもっているとそうなる、その弱みにつけこまれていいように使われるとなる
除染であれ建築現場でも正規でない人は何か事情があってくるから賃金の不払いとか安く使われる、暴力団が介入してくるとかある。
ブラックユーモアなのはアメリカの刑務所で安くこきつかわれている人たちである。
これも弱みをもっているから資本家に安くこきつかわれるとなる
そういう仕組みを作り出しているのか資本主義といえばそうなる
逆にカルト宗教団体とか底辺層を相手にする団体でも左翼でも人の弱みにつけこむともなる、それで勢力を拡大する、そういう弱みをもった人は強力な会員に鳴りやすいということである。
要するに人間は弱みをもつと頼らざるをえないからそこに歪みが生まれる
別に金をもっていれば嫌な仕事などしなくてもいいのである。
ともかく人は何らかの弱みをもくそれで心も実生活もゆがめられているのである。
雇われている人でも別に金があれば雇われなくてもいいし相手に何を言おうといいわけである。その人も雇われているとなると弱みになる。
人には人の価値観があるから別に何を無駄だ、そんなことしても価値がないということは言えるのである。
そうならあなたはそのように生きなさいとなる、別に相手の価値など認めなくてもいいわけである。
では人を雇うというとき実は雇う人も一人でできないとか弱みをもっているからでもある機械でやれるとか自分一人でやれるとなれば別に雇う必要もないのである。
自分の場合は弱みをもったから様々なことでそう強いられたのである。
人間は意外と価値観の対立は深刻である。グローバル化したときなぜ移民問題などでうまくいかなっかったのか?
イスラムとの価値観をキリスト教圏ではできないということもあった。
その価値観の対立の故に共同できないということがあった、一見自分のしていることの否定はささないたとでもそういうことで必ず人間は対立が起きる
それは家族内でも起きている、自分の母親は貧乏だったから花にも興味もないから庭作りしたとき木を植えたらそんなものいらない、金がかかるからいらないと言い続けていたのである。母と子だってそうした価値観の対立があり世代間でもありそれで共同しえなくなるのである。だから価値観の対立はささいなことでも深刻になり共同しえなくなり分裂することにもなる。
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