2017年05月15日

植物的なものと動物的なもの (文明崩壊が起きる原因ー原発事故も同じだった)


植物的なものと動物的なもの

(文明崩壊が起きる原因ー原発事故も同じだった)


この世界を見るとき生物でも植物があり草食動物がいて肉食動物がいる。
すると基本的には植物があって草食動物も植物を食べて生きることができるし
草食動物がいて肉食動物が生きることができる
ベースになっているのは植物である。
となると植物を栽培する農業が文明を作り基礎になっていたことがわかる
遊牧民は羊を飼うが羊は草食性であり草がなければ生きられない
つまり羊を食べて生きているがその基になっているのは草であり植物なのである。

そして肉食動物でも雑食性があるもの、熊などがまだ日本のような文明化した国で生きられるのは雑食性だからである。ヨーロッパでは熊は絶滅しているからである。
雑食性の強みは肉が食べられなかったら植物を食べるから生き残りやすい
こういうことは人間にも起きてくる、商品食物としてコーヒーばかり栽培していると
何かコーヒーが売れなくなったとか問題が起きるとコーヒーだけでは飢えることになる
現実そういう問題が起きて飢餓状態になった後進国がある。
畑でもいろいろなものを作っていれば食糧になるから飢えることがなくなる

飢饉になったとき山に住んでいる人がまねがれたというとき山の食糧となるもの山菜でも何でも食べて生き残ったということがある。米だけに頼っていても危険になる
つまりAだけに頼るのではなくBCDとかの選択があれば助かりやすいとなる
だからTPPとかなるとグローバル化経済で分業化するから日本は車だけを作っていればいいとなり食糧も自給できなくなりそのことにより飢饉とかに緊急の際に対処できなくなるそれでTPPはむしろアメリカが反対していたというのもわかる
とても国レベルになれば分業など成立しないのである。

文明というときも自然の秩序と同じようにして植物を食糧として成り立ったのである。
だから欧米人が肉食のために体から酵素を出すというとき肉食になって体が変質したともなる、肉食はどうしても人間も肉食動物化する、草食動物と肉食動物は見た感じも根本的に違うからである。草食動物は繁殖力が強いから肉食動物より弱いようで強い
肉食動物は減少の一途をたどる、また大型の象とかでも絶滅の危機になる
それは恐竜が滅びたように強いように見えても弱いのである。
結局人間は何が強いか本当はわからないのである。

人間はやはり木のように根をもつ場がないと個々人でも安定しないし文化も文明も作れないのである。
ユダヤ人が土地をもたない、国土をもたないから流浪の民となりただ金融で生きるほかなくて資本主義を産み出したという説もそうである。
ユダヤ人は土地を持たないのだから安定が得られない、ただ金だけが頼りとなるがその金だって紙屑にもなるから安定しないのてある。
江戸時代なら倉に米を貯えていた方が安心であり今でもそういうことがある。
金をいくらたくわえてもそれは債権であり貸しているとしても返されない恐怖がつきまとうのである。そこで世界恐慌が資本主義では常にあり破綻してしまう。

遊牧民は砂漠とか草原を生活の場としていたから通商が発達した。常に移動していることはすでに商人として移動していると同じだからである。
イスラムに商業が発達したのはそのためである。モハメッドも商人だったからである。
砂漠地帯に人類最古の場がありそこに一神教が生まれた、なぜならそもそも神と契約するというときそれは商業の概念がもちこまれていたからである。
契約というとき商業で絶対的なものでありそれが守れないとしたら商業は成り立たないからである。

脆弱で対処しにくい環境に住む人々は短期的には見事な成果をもたらす理にかなった解決策を採用するが長期的に見た場合、外因性の環境変化や人為的な環境変化を未然に防ぐことができなかった変化に直面したとき致命的な失敗ももたらす。

現代人-住宅所有者、投資家、政治家、大学の事務官、その他の人々-は経済が好調なうちはただな浪費をしても許される、その情況が無常あることを忘れて変動したときすでに贅沢なライフスタイルに慣れきってしかたなく生活レベルを落とすかあるいは破産するか
二つに一つしか選べないのである。
(文明崩壊ージャレド、ダイヤモンド)

現代人というとその最たるものは科学者、技術者だろう。原発事故でこの人たちのテクノクラートの権威が失墜した。
原発とういのはエネルギー不足を短期的に補うものであった。手っとり早い魔法の技術だった、それには大きなリスクがあったが無視された
そして人々はそれに頼った結果として社会自体が崩壊して放棄された、町や村がゴーストタウンになったからここで実際に起きたことであり空想ではない事実なのである。

長期的視野にたてば森林資源が日本にはあり炭焼きなどが継続する資源としてはかえって良かったとなる、そんな生活できるのかとなるがこの辺では現実問題としてそういうことがつきつけられたのである。
この辺では贅沢な生活を求めてあくなきものとなっていた。
みんないい車をもっている、田舎では一人一台車をもっている、借金しても立派な家を建てる、そういう生活を常時していると生活レベルを落とすことができなくなる。
事業に失敗した人も同じである。贅沢していたからその生活をレベル落とせない、それで今度は借金するために何でもする、犯罪だって最後にはするようになる
そんな人が自分が病気のとき介護のとき来たのだから最悪だった
もう贅沢した生活をするために他者から借金しても犯罪してもするとなるから怖いのである。
その人はまた見栄もあり成功したということに固執している、そのために借金してもそう見せているのである。

ともかくこの辺で起きたこと自分にも起きたこと原発事故でもこれは一つの文明崩壊現象なのである。それがなぜおきたかというとこの著者の提言がこの辺にあてはまる
それはここだけではない、日本全体でもそうであり世界全体でもそうである。
継続性のない科学技術に頼りすぎるとインディアンの村とは違う大規模な文明崩壊が起きてくるのだ。


根を張る一日

今日一日が静かに始まる
それはさらに大地に根を張る一日
大地と深く結びつく一日
幹を枝を造る一日
その積み重ねが大木を作る
急がずに積み重ねられるもの
そこに充実した実り
時計が刻む時ではない
一年十年単位の時
牛の歩みごとく
一日一日が大地に根を張る
そういう長い時間の中に
大地と人と人も結ばれぬ
その絆は断たれることはない
一層強固に結ばれるのみ

こういう思考は田舎から農業から起きてくる、都会では大地から離れているから起きないところがこれだけの科学技術の文明はそもそも大地から離れている
すると東京でも大都会でも大規模な崩壊が起きてくるかもしれない
電気が供給できないから原発に頼るそのために土も水も空気まで汚染されたら住めなくなるのである。その都市は廃棄されてゴーストタウンになる、この辺で起きたことと同じことが起きるのである。
そんなことがありえないと思うが現実にこの辺では起きているし事実なのである
もう町でも村でも前のようにもどらないからである。
だからそんなことは起きないということとして安心もできないのである。
つまりこの世が無常だということである。個々人でもそうであり全体でもそうである。

人間は常に変化する無常のなかにある、それをまねがれえないのである。
文明は確かに発展してもまた衰退する、奢れるもの久しからずなのである。
栄華はどこでも一時的なものである。それは世界史でもそうである。一時栄えたイスラムもあのように衰退しているしどこでもそうである。それはこの世がそもそも無常の世だからである。永続する栄えなどないのである。
ただ恒久的なものは農業にあるということは確かなのである。
確かに農業でも栄えても文明は遂に衰退して崩壊する、でもエジプト文明でも長い、千年とか普通でありそれだけ長く持続すれば十分だともなる
現代の時間感覚とはまるで違う、人間はもはや百年後のことなど考えられないからだ
今だけが良ければいい、後は野となれ山となれという今にすべてを費やす感覚である。
しかし世代はつづくしカルマは今度は子や孫やそのあとの世代に引き継がれるのである。この辺などでも原発事故のそのカルマはプルトニウムが二万年消えないとかのカルマを背負わされたのである。
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