老人の「救世主症候群」で詐欺にあう
老人の生きがい、社会的役割喪失がそうさせる
羽鳥慎一モーニングショーで老人か「救世主症候群」になっていることを放送した
老人が話し相手もなく社会的役割もなく孤立している、そこで相手のために何かをしてやりたいとなりだまされる、そこに会話があり何か頼られているとなり感謝されるから
だまされる、その老人の心理を功名につくのがだます方である。
これも現代老人の問題を象徴している、老人は暇で金ある人もいる、金もなく困窮している人もいるし様々である。一般的には暇であり健康であるが家族でも社会でも用なき人となりただ無駄飯食べているだけの人に見られる
老人はただ若者の負担なんだよなとなり早く死ねとかなる
それで若者を困っているのを見て同情するのが人のいい老人だという
その老人もある程度金に余裕があるからそうなる
金があってもどう使っていいかわからないとも言っている
確かに家族から社会から役割がなくなるとき自分が家族で経験したことはそういう人が認知症になりやすくなるから恐怖なのである。
人間はやはり役割がなくなる家族のなかでも社会のなかでも役割が仕事がなくなるということは無用の人となることである。
無用には無用の意味があるが人間は生きがいが必要なのである。
だから家族の中で90すぎても家事をしていた人はボケないで何でもしてもらっていた家事もしない、退職して社会的役割がなくなった女性はぼけたのである。
認知症の原因はわからないにしてもそうして家族でも役割がなく社会でも役割がなくなると頭も働かないし生きがいもなくなりボケやすくなるのだ
だからこれから認知症が増えてくるかもしれない、すでに何百万人が認知症になるという時代である。それも社会の負担が増大するのである。
そもそも高齢化社会というのはみんな経験していないのである。高齢なにることも未知の世界なのである。
小高の人は75歳くらいなのか話して面白い、何か気があう人である。
体も73歳くらいまでは60代の延長である。60代はまだ青年だとか言っていた
体の面からすると73くらいが限界らしい、その人はやはりふけていて足と首が痛くなっている、自分もだからそろそろ苦しくなってきている、ただ後2、3年は60代の延長であり
60代は今は老人ではないのである。本当の老人は後期高齢者の75歳だなと言っていた。
でも80までは生きることはイメージできる、90までもなんとかできるが100まではできない、確かに100までとなると本当に未知の領域になる、90まででもそうだろう
つまり人間はそうなってみないとわからないからそうなるのである。
高齢化社会はそれぞれがその年齢を生きることが未知の世界なのである。
「救世主症候群」とはボランティアをしたいということにも通じている、何か社会の役にたちたいということである。何か自分が存在している意味を見いだしたいということである。そのことが老人になると強くなってくる、一人暮らしとかなると余計にそうなる
話し相手もなくなるし淋しいとなるからだ
それは自分も家族をみんななくしてから感じている、それで今までは人と話しなかったが話するようになった、家に誰いずガランとした家にいることが淋しいのである。
ただ二世代所帯でいたという82歳の女性は息子がかまってくれないとかで淋しいから携帯のメールに答えて詐欺にあっていたのである。
だから家族と暮らしているからといってそれでたりるとはならないし満たされないものがあった
無人駅のボランティアをして自分で実際にこれは奇妙にいつも思っているのだ
こんなことをしている自分が何なのだという奇妙さである。
盲人が一人が通勤しているのかなにかわからない、その人を導いてやる
遠くから来た人の道案内をしてやる、意外とあそこでわからないのがタクシーの番号なのである。入り口に番号を書いたのが張ってあるのだが気づかないのである。
それで前の自転車屋とお菓子やに行って聞いていた
そしてそこからタクシーに乗った人がいる
自分はそのタクシーの番号を教えるときがある
それから近くの食道も駅からわからない、看板があるが見えないのである。
それを教えたら行きと帰りにありがとうと言われたのである。
意外と駅ではちょっとした案内をするとありがとうと言われる
こんなにちょとしたことでありがとうと言われることを自分は経験していない
人にありがとうと言われたことを経験していないのが自分である。
おそらく消費者は王様だというときいつもありがとうと言われる立場にあったからかもしれない、そんなちょっとしたことでありがとうと言われるのか意外だったのである。
ただ今はスマホでそういう情報を見ている、でもそれだけではたりないことがある
やはりどこでもすべて機械ではすまされないのないのである。
何かかにか用がある、例えば今は田植えでも機械でしている、ところが機械でできない縁(へり)は人間でしているのである。
また中国でコンバインで麦刈りをして出稼ぎ者の仕事がなくなったがコンバインが麦刈りできない平坦な土地でない所は人間がしていたのである。
つまり人間の仕事は必ず中にあり機械だげではできないのである。
ともかく老人はありがとうと言われたことがない、感謝されることに飢えているというのもわかる、そのことは用がないということである。
そこで救世主症候群が生れる、助けてやりたいという感情である。
その感情にだまされてもそれがだまささたとも思っていないというからそれだけ自分が他人に何かしてやったという感覚になってるしそうしたいということである。
だから老人のボランティアが多いけどその人たちは何か助けてほしいという要望よりボランティアをしたいという老人の数が膨大になっているのだ
それがないそれがた見つけられないということでそうなっている
ただあらゆる仕事は誰でもいいということはない、適性が必ずあるからだ
そこがボランティアのむずかしさである、いくらボランティアしたとしても仕事している人にとっては迷惑になる場合だってあるからだ
だから意外とボランティアでもそういう仕事が見つけにくいとなる
つくづく何で道路の側の何か金属片のようなものを探していたボランティアがいた
その人は道路公団を退職した人であり道路のことをいろいろ言うのもそのためだった
そんなことしているのもそのためだった、つまり退職した結果仕事がなくなり
道路公団の仕事をしていたから今はボランティアで道路の掃除のようなことをしていたとなる、人間は人生で今までしてきたことにこだわるからそうなる
道路公団で勤めていたからその延長として道路に関心があり掃除のようなことをしていたのである。
いづれにしろ高齢化社会というとき社会全体でもそうだが高齢になること、90までも生きるということが未知の世界なのである。それが優れた人が90まで生きるというのではない一般の人が普通にそうなってゆくのが高齢化社会なのである。
未知の領域だから社会的にも個々人にも問題が起きる
でも老人になったからといって何か急に変わるわけではない、人生は継続であるから老人の生も今までの継続としてあるから何か急にボランティアしろと言っても簡単には見つからないだろう。
つまり人生設計をすでに老人になる前に準備しておく、それは金銭的な面もあるが精神的な面でもそうである。でもそんな設計をすること自体がむずかしいとなる
結局人間は日々のことに追われているのが現実だからである。
でも90まで生きるとしたら60から人生の成果を出せばいいとなるとあせる必要がなくなる
長い目で長い人生設計ができるということは確かである。60くらいで死ぬとなると何もできずに成果を出せずに死ぬということがある、遊んでいてもあっというまに時間はすぎるからである。
つまり人間の経験が限られていてそれで知見も広がらないし深められないからだ
ただ老人というとき
「90歳になって老後が心配とか、わけの分かんないこと言っている人がこないだテレビに出てた。オイいつまで生きてるつもりだよと思いながら見てました」と麻生大臣が語った。
こういう時代だということである。
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