昭和10年度鹿島小学校卒業生名簿(昭和46年・2・調査)
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たまたまこんなものが資料として出てきた、自分の姉は85才で死んだ
生まれたのは大正13年生まれだろう、小学校を卒業したのは昭和十年である。
この卒業生名簿を調べたのは昭和48年(1973)である。
約50才の時である
52名の内10名がすでに死んでいた、女性だけだから死ぬ割合は少ない、丁度20代で姉は従軍看護師としてシンガポールに(マレーシア)のジョホールバルに行った
そこで4年間辛酸をなめた
終戦になったときジャングルに逃げたから食うや食わずになり苦しんだのである。
終戦になってもその時、まだ日本兵が戦い続けていたのである。
あの太平洋戦争終戦の8月15日、ジャカルタ、香港、シンガポールはどこの占領下にありましたか、?答えは全部日本
日本は本土決戦叫びながら兵士を引き揚げて集中させるような手さえ打たず時間を浪費したあげく惨劇をまねいた(藻谷)ー中央公論
確かにこの時戦地では終戦になっていないで戦っていた人たちがいたのである。
それでジャングルなどに逃げて苦しんだのである。
終戦になったらジャングルに逃げる必要はなかったのである。
降伏したのだからその時点で日本に帰る準備になったはずだからである。
50才で一割死んでいるのはやはり多いかもしれない、ただ自分の世代でも60代で一割同級生は死んでいる、20代に戦争があったからその世代の人は相当男子なら死んでいる
従軍看護婦として戦地に行った人は少ない、第一その当時看護婦になることは相当に優秀でないとなれない時代だった、資格をとるにも東京まで行ってとっていた時代である。
赤十字関係でありそれで真っ先に招集されたのである。
姉は自分は常に優秀だったと言っていたけど頭も良かったし体も丈夫で気が異常に強かったのである。だから従軍看護師として4年間勤めることができた
この名簿を見て女性だから結婚して嫁ぐのだが相馬郡内とか地元に嫁いだ人がまだ多い
北海道に三人、東京横浜に三人とかいるが地元に嫁いだ人が多い
今なら全国に嫁ぎ先が分散している、まだ地元内で嫁ぐという時代だった
戦前ですでに嫁いだ人がいるからだ、ただ自分の母親は大正生まれでも東京に女中に出て結婚しているのである。
姉の同級生で近くにまだ生きている人がいるが病院に入院して死ぬだけである。
この一枚の資料が物語っているのは何か?
そこに様々な人生があったがこの資料からだけではよみとれない、北海道に嫁いだというときまだ開拓するということで嫁いだ人もいたかもしれない、そういう時代だったからである。
住所に仙台市東十番丁国鉄アパートというのがある。
1987年(昭和62年)3月31日時点で新幹線と在来線併せて総延長19,639キロメートルの鉄道路線を持ち、30局の鉄道管理局と総局で運営した
まだこの時代は国鉄があった、鹿島駅前にも国鉄の住宅があった、小学高の同級生に外から来た国鉄職員の人がいたのを覚えている、この辺でも国鉄に勤める人が多かったのである。そこがいい就職先となっていた、だから民営化するとき騒いだけど十分な金をもらったのである。国鉄があって社会党があったのである。それも昔となってしまった。
社会党は長くあったがもう消滅してからずいぶん時間がたっている
社会党がありえたのは国鉄があり組合が大きいから成り立っていたのである。
この人たちが今どれだけ生き残っているのか?半分は確実に死んでいるだろう。
その人たちの人生も様々でこの資料からはわからないのである。
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