2017年05月29日

原発事故と老子の教え (原発事故は文明崩壊の現象をもたらした)


原発事故と老子の教え


(原発事故は文明崩壊の現象をもたらした)


《老子・第六十四章》
「安定しているものは保持し易く、未だ兆(きざ)していないうちは対処し易い。物事は顕在化しないうちに処理し、乱れないうちに治めよ。

老子と原発事故が何か関係あるのかともなる

未だ兆(きざ)していないうちは対処し易い

病気とかでもそうだろう、必ず何か兆しがでてくる、その早い兆しを察して治療すれば軽くてすむ、でも病気が顕在化したときはすでに時遅しということになる
原発事故でも実際はいろいろな小さな不具合があった、ただそれが大きなものとして報道されなかっただけなのである、それは「安全神話」を作るほどの権力をもつものによってそうさけられていたのである。
何かあってもたいしたことがないでかたずけられていたのである。
「安全神話」になるほどだからそうなる
おそらく内部のものもその安全神話が宗教のようになっていたのかもしれない、外部でもそうである。日本人の技術は優秀だからチェルノブエリのようにはならないとか思っていたのである。原子力など自分などもむずかしいからそういうことが信じやすいのである。

物事は顕在化しないうちに処理し、乱れないうちに治めよ。

これは今の原発事故周辺を見ればわかる、もう乱れに乱れて収拾がつかなくなっている
廃炉でもそうだし避難区域の復興にしてもそうである。
補償金の対立もあったしいろいろな問題が噴出して顕在化したとき収拾がつかなくなっいるのだ
病気だったら顕在化してもう手遅れでありあとは死を宣告されるだけだとなる
ある意味で文明崩壊現象を見る感じになる
これだけの問題が顕在化したときこれを解決することがもう絶望的だとなる

そもそも老子は2000年前に今日を予言していたのである。
道具を使うなとかまで言っている、道具とは原発も道具である
その道具故にふりまわされて収束がつかなくなる

最善のものは水なり、無味を味わうというとき現代ほど様々なものを味わっている時代はない、貧乏人さえ昔から比べれば考えられないほどグルメなのである。
でもいろいろなジュースを飲んでもその元は水なのである。水が最善のものなのである。ジュース類は飽きるが水は飽きないからである。その水さえ飲めなくなったのがこの辺なのである。

馬酔木なす 栄えし君が 掘りし井の 石井の水は 飲めど飽かぬかも 

水は飽きることがないのである。だからある一面様々なジュース類を生産して飲んでいるがそれも実際は老子流に言えば無駄だとなる、無為がいいというとき無駄なことをしているのが文明なのである。文明の労働には膨大な無駄がある
そのジュース類を生産するために費やされる労働も膨大なのである

多く貯めれば貯めるほど失うものは多い

金持ちが安泰かというとそうでもない、その金の心配をいつもしていなければならない、金がなくなるということを常に恐れているのである。
多く持っていれば失うものも多くなるからである。何ももたなければ何も失うものがないというのも逆説である
何かこうした教えはキリスト教とか仏教とかの教えと共通しているのである。
それはすでにそれだけ文明化していたからその反発から生れたのが宗教だからである。
今だけが文明ではなくすでに2000年前にも文明化したためである。

いづれにしろ原発事故は文明崩壊の現象だったのである。バベルの塔の崩壊のように終始がつかない状態なのである。右往左往して何か解決策もなくふりまわされているだけだとなる、バベルの塔が崩壊してあちこちにその破片が散らばり未だ収拾がつかない

終始がつかなくなっている、それは神から天から下されたカルマだったともなる

そのカルマはプルトニウムが二万年消えないというカルマをここに残したのである。

小国寡民の理想郷というのもそうである。それは実は江戸時代に実現していたのである。隣の村とは境がありそれぞれが自給自足して交わらないのである。
だから隣の村が麦踏みに来た若い男は大蛇とされた伝説がこの辺に残っている
もしかして江戸時代が300年も平和を維持したのはそうした村が基本にあり争わない生活だったかもしれない、それが今になるとグローバル社会になったとき地球の裏側とも関係する、村の規模から地球規模になったのである。
そういうことでどうなったのか?明治以降は世界大戦があり膨大な人間が死んだのである小国寡民ならそんな戦争しなくても死ななくても良かったのである。
グローバル社会にもプラス面があっても大きな負の面がある。
それが歴史で証明されたからそれもすでに老子によって予言されていたのである。

小国寡民というときこれも現代的に解釈すれば一万くらいの町がある、小高とか鹿島とか新地とか結構全国的にある。すると町の単位は一万くらいが適正規模なのかとも思う。
この辺だと原町だと回ってみると知らない所があり大きいなと思う
鹿島駅からいろいろ考察したが一万くらいの町は身体的にも一体化できる
身体的感覚で一体化できる、これが4万5万の人口になると相当に規模が違って一体化できなくなる
老子の考えた小国寡民は日本の村くらいの規模なのである。
だから今の感覚では一万の町さえ大きいのである。

いづれにしろ2000年前に今日の状況は予言されていた、キリストであれシャカであれ老子であれ同時代に生れている、それが鉄の生産がはじまったときだというときそれが文明を作るものとなったからである。
木の鍬から鉄の鍬になったとき生産力が飛躍的に増大したからである。
老子が鉄の鍬使わないで木の鍬を使えといったことでもわかる
その道具や機械によって素朴なものが失われるからである。
車社会のことで自分が追求したようにである。
その時社会も大きく変わりそれに反発する思想家が生れたからである。
それより古いとなると聖書のバベルの塔でありまさにそれは文明崩壊なのである。
この辺で起きたことはそうした文明崩壊の現象なのである。
だからもうその混乱を書いてきたけどどうにもならないという状態になったのである。
内部でも補償金で対立したとか争い混乱状態が収束しないのである。

バベルの塔は崩壊した
人々は言葉も通ぜず争う
そして散り散りに民はなり
ばたばたとなおその破片が落ちてくる
その災禍は限りない
百年後もまだ落ち着くことがない
ばたばたとなおその破片は落ちてくる

これくらいの災禍なのが原発事故だったのである。



posted by 老鶯 at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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