延命治療の中止の判断のむずかしさ
(人間は意識があるうちは生きている)
それでは機械の「認識」と人間の「認識」との違いは何かと問われると、それは正に「意識」を定義できるかどうかという問題に帰着するのではないでしょうか。
コンピュターではどうしても意識をもたせることができないという、そこが人間と機械との根本的相違である。意識があることが人間であり機械はその意識をもつことができないそもそもでもこの意識と何なのかというときまたむずかしい。
私の意識が大宇宙を感じ、地球を感じ、妻や子を感じ、親兄弟を感じればこそ、それらのものは存在できたのです。その意識が無くなれば、その瞬間すべてのものは消え去ってしまうはず・・・!?
意識のなぞは死んだら意識がなくなる、死者は意識をもっていない、灰となり原子となり消えたとなる、死者が生者を見守っているというとき生者がそうして死者に意識をもたせているともなる、死者が果たして意識をもって見守っているのかとなる
自分の肉親の死で感じたことは認知症の不思議は以前として意識をもっている
時々正気にもどる、正気の意識をとりもどすということである。
誰か息子でも娘でも意識できないこともあるが意識することもある
記憶障害になっても意識は存在して誰かを認識する、それが死ぬ前に正気になることがあるのが不思議なのである。
身内を二人を看取ったが一人は典型的なアルツハイマー型認知症だった、激情的な人だったから暴力的にもなった、そういう人でもその人が意識を失った訳ではない、ずっと自分が誰かを意識していた、ただいろいろなことがわからなくなっていた。
そして最後に意識不明になる前に何かこれまでの事情を察してうなづいたのである。
いろいろ暴力的になったりして身内でも不信感をもっていたが敵対的な感情がなくなり
しゃべらなかったが何かを察してうなづいた
そしてすぐに一カ月間意識不明となり死んだ
意識不明となったときもう何も通じない、完全に死んでいたと同じであった
ということは意識があるうちは人間は生きているのだ
意識がなくなったとき人間は何であれ死んでいるのである。
だから植物人間は意識がない、体が生きていても意識がないから死んでいる状態なのである。
もちろん植物人間から生き返ったというとき意識を取り戻したということである。
植物人間の状態ときは死んでいるのである
もう一人は百歳まで生きたけどひどい認知症ではなかった、だいたい90以上になると半分は認知症になる、認知症の症状も様々ななのである。
そして死ぬ一カ月前とかに孫が一人いてその人に金をやれと自分に大声で言ったのであるそれには驚いた、離れているから自分は関心がなかった。
でもそれが遺言であり孫には言われた金は払ったのである。
最後の言葉は重いものとなるからだ、払わないとしたら死者に恨まれるともなるからだ
ともかく人間の最後をどうするかとなると家族でも死ぬ人自身も苦しむ
死の側面は社会関係とか家族関係とかの中の死がある
それと同時に死そのものがある、人間が死ぬということは社会関係とも家族関係とも関係ない絶対的死がある、これはまねがれないのである。
もう一つは社会関係としての死がある。社会的に一個の人間が消滅するということである家族関係の中で親兄弟と息子娘と孫とかと永遠に別れることである。
不思議なのは社会関係とか家族関係とかの中での死というときすでにそういう人が生きながらいる、天涯孤独の人はすでに家族関係がないのだから家族関係の中の死はないのである。社会関係でもすでに社会から見捨てられた人はもう社会関係の中で見捨てられて死んでいる、そして孤独死となる、だから何々の関係、人間関係の中ですでに生きながら死んでいる人はいる、それとまた絶対的死は別なのである。
この世の人間関係が切れることが死なら生きながらそうなっている人は結構いるからだ
だから死とは何なのかとなる、それは明らかに意識の消滅なのである。何かを意識することがなくなる、それが死なのである。人間関係でも親兄弟があり娘息子がいて孫がいて友達がいて意識できなくなる、何か花を見ても意識できない、自然を見ても物を見ても意識できない状態が死なのである。だから逆に意識がある限りは生きているとなる
つまり社会関係や家族関係がない仙人のような人がいたとしてその人は以前として生きているのである。自然でも意識をもって見ているからである。ただそういう人も意識がなくなれば死んでいるのである。
この人もう生きていても苦しむだけだから死なせた方がいいという判断をするときむずかしいのは苦しんでいても意識があるうちは生きているからだ
だから意識がなくなったら死なせても何の問題もないのである。
自分の身内の一人はうなづいた時は言葉を発しなくても意識があり生きていたのである。でもそのあとは目は死んで意識不明になったのである。何にも意識もできない状態になったのである、この時は死んでいたから延命治療しても無駄であり死なせても良かったのである。
いづれにしろ人間の最後をどう迎えるかはむずかしい、ただ全体的死から救われるとしたら信仰しかないのである。人間は死なないという永遠の命のあることを信じる
それがキリスト教だったら根本にあるからだ、肉体は死んでも必ず蘇るという信仰である絶対的死はまねがれえない、ただ社会関係家族関係の中での死は死そのもの絶対的死とはまた別なのなのである。
結局死は社会関係家族関係からの離脱でもある、いくらこの世の関係に執着しても遂に死をもって断たれるのである。
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