尽きる線路、消滅した村
(山形鉄道フラワー長井線の終点まで)
記憶の中の線路
終点の荒砥駅をおりて菖蒲という地名が二つもあるのもいかにも
山の奥という感じになる
クリック拡大
線路尽きてその奥なれや住む人のありしも消えて夏草うもる
蚕桑駅おりる人あれさみしきや線路はつづく終点までに
織機駅その名に思ふ昔かな機を織る音そ聞こえて石の鎮まる
夏菊の駅に映えにつ高校生おりるときのみはなぎにけり
一度のみ乗りし線路の尽きにけりその果てゆけば村の消えにき
終点の荒砥駅におり夏の日や菖蒲の地名残りあわれも
かつて住む貧しくあれどともる灯や消えにし村を惜しみけるかな
日本でこういうローカル線がまだ残ってるのが不思議だとなる、ここには確かに夏に一回乗った。すぐに終点になってそのあとは線路がない、調べると機織駅とか蚕桑駅とかある機織駅の名は機織川があったからだという。蚕桑駅は養蚕でありそれはどこでもそうだったからわかる
手で機織りしていた人は戦前までいた。その女性は明治生まれであり母の実家で機織りしていたのである。家の中に機織り機があったとなる、そういうことはつづいていたし珍しいことではない、大量生産する前はそうだったのである。
古事記によりますと、天孫ニニギノミコトが笠沙の浜を歩いていたとき、海辺に八尋殿を建てて中で機を織る美しい機織女を見つけました。衣は魂を包むものとして神聖なもので、霊魂のシンボルとされていました
河内女(かはちめ)の 手染めの糸を 絡(く)り反し片糸にあれど 絶えむとも思へや
〜作者未詳 『万葉集』 巻7-1316
機織り石(はたおりいし)の伝説
05manabu/shiseki/shiseki33/shiseki33_01.html
これは日本だけではない世界的に機織りの歴史があり古い、人類がはじまって以来この業はしている。
その後自分の母親が原町の紡績工場で働いたけどその時は大量生産になっていた。
まずその線は乗り降りが少ない、一日駅でも50人以下だから良く維持できると思う
常磐線は減っても何百人駅で乗り降りがまだある、原町とか相馬市は4,5万の人口があるからだ。スーパーヒタチが急行が走っていた路線でもあった
それに比べるとこうした線が残っているのが日本である。
自分は車をもっていないから車で旅していないから車で旅する感覚がわからないのである一方鉄道を利用しなくなった人は車だけ利用する人は鉄道の乗り方さえわからない人が多くなっているのだ。これも時代である。
この線に乗った記憶も薄れている、それで記録したものを読み記憶をだどる
この線を思い出したのは限界集落で消滅したという村があるとインターネットで発見したからである。それは終点の荒砥駅からさらに山に分け入って所である。
平田村でありそこはすでに人は住んでいないと報告がある。
こういう限界集落が消滅してゆくのがすでに増えてきているのだろう。
山形というのもやはり奥深い知られない場所がある、そして線路が尽きると自分には車がないのだから行くことができなくなる、すると何か道が尽きたという感じになり遠い感覚になる、鉄道で旅しているとそうなるのである。それは車で旅していてはわからない心境である。
当時、村では、水田耕作、青苧( あおそ) 栽培と麻布作り、養蚕業が盛んで
あり、冬は炭焼き、女子は機織で生計を立てていた。その後、出稼ぎが盛んに
なっていった。大瀬集落と平田集落を結ぶ道路は、1962 年度に車が通れるよう
に改良され、1966 年から林業構造改善事業が導入され改修が行われた
農山村集落の消滅メカニズムと再生可能性
ここは二十数戸あり200人くらい住んでいたが2000年くらいに消滅した。
山形市の方に教育も便利だとか道路ができて移るようになったのも皮肉である。
交通が便利になるとかえってこうなるのである。
他にも白鷹町では消滅した村がある。
何かこういうふうに消滅する村というときこの辺でも浪江駅までは常磐線が開通したがそこが終点でありつながらない、するとその先がやけに遠く感じられるのである。
別に道路は通じているから車だったらそうは感じないのである。
終点で線路が尽きることは何か特別の感情をいだかせるのである。
飯館村とかでもこうして蕨平の人と鹿島駅であったが40軒があったのが一軒しか残らなかったというときもそうである。
すると草野で小宮とかへ分かれ道がありそこから蕨平でも通じていた。
それは人が住んでいる家があるという感覚で別れ道があった
もしそこはこのように消滅するとここの先には家がない人が住んでいないとなり感覚的何か自分の書いた童話のようにはならない、地名とは人が住んでいて活きているからである蕨平となると草野の中心地域から相当に離れているから余計にそうなる
もうそこは原野化して森になってしまうかもしれない、飯館の中心地域は避難区域になっても頻繁に川俣や福島市に通じる道路は車が通っていたから違っていたのである。
飯館村はそれだけ広いからそうなった。
いづれにしろ何度も言うように旅でも記憶が大事である。記憶が消えるとそこは存在しなかったと同じなのである。だからホームページで20年前から自分は記録しとて書いてきたのである。それを参考にしてまた書き直しているのである。
何か自分の書いたものも忘れている、こんなこと書いていたのかと自分が読んで新鮮に感じているのである。人間はこれほど忘れやすいのである。
旅をしても忘れやすい、どこを行ったのか近くすらわからなくなるときがあるのだ。
そして老人になるとみんな記憶をたどる旅になってゆくのである。
廃村を旅している人もいる、インターネットに写真も出している、これからさらに日本では増えてくる、それはこの辺が飯館村でも小高でもそれとにたようになったから関心をもったのである。ここは特殊な事情でなったのけど全国的なものとしてもそうなる場所が増えてくるということである。
白鷹町(フラワー長井線の旅)
【旅の思い出(東北-新潟)の最新記事】
- 桜満開仙山線で山寺へ (山形城は桜..
- 秋の七ヶ宿街道の旅
- 金沢の冬の俳句十句(冬桜、冬の水)
- みちのく考ー枯野のみちのく、わび、さびの..
- 会津から新津駅ー地名を知り旅を回想する ..
- 青森の詩(青森の地歴の探求)
- 山形紀行(地理的境を知ること-俳句十句)..
- 雪深し(俳句十句) (会津と東北な..
- 秋の日本海に沿って自転車の旅をたどる(俳..
- 青森の青からイメージされるもの (..
- 菖蒲と金色堂 (芭蕉の俳句について..
- 盛岡短歌十首(秋から冬) (盛岡は..
- 最上川、日本海沿いの旅情の秋の短歌連作
- 小国の地名が多いのはなぜか? (山..
- 盛岡短歌十首(秋から冬) (盛岡は..
- 奥の細道をだとる(秋の短歌十首)
- 最上川(春秋短歌二〇首) (最上川..
- 七ヶ宿街道を行く(秋の短歌十首) ..
- 北上川の春の短歌十首
- 東北新幹線ー春の俳句十句