2017年06月16日

冬の貴婦人(詩) (死者はどこにいるのか?)


冬の貴婦人(詩)

死者はどこにいるのか?


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夏蝋梅の広い葉陰に
ひっそりと冬の貴婦人
石によりそいもの言わず
あるとしもなく
患いもなく咲いている
それは母のようでもある
おとなしい静かな女
死んだけどまだいるような
その花のように
自分を見ているような
死んだ人はどこにいるのか
その長く親しんだ所に
まだ愛着を覚えているのかも
ならばここに安らかに眠るがよし
我もここにありしも
姉もまたここにあるがよし
争わずにこの家にあるがよし
今望むことは患いなきこと
ひっそりとして誰にも迷惑かけず
患わせずあること
それが幸いなりしを知る
夏蝋梅の花に
蜂が一匹ささやき去りぬ


人間は外部の環境でも日々変わっている、この辺は特に変わりすぎた、信じられない変わり方だった、津浪原発事故で田んぼが草原になったり環境自体がありえないように変わってしまった。
そういうとりまく環境も変わるが人間の心の内部も心境は実際は日々変わっている
介護をしているとき、十年だから長かった、でも死んでみるとまた違ってくるし死者への思いは時間がたつごとにまた変わってきているのだ。

なかなか最初は死者を死んだ人として受け入れられない、それは人によって家族環境によって違う、いつまでも死者のことを忘れずに思っている人はいるし忘れる人もいるからだ死者は骨となり灰となり消える、では一体どこにいったのだろうとなる
墓にいるのかとなるとそれもわからない、ただ一応墓にいるとしてお参りしているのである。

死者はだから花の咲く庭にいるとかにもなる、母はおとなしい内向きの性格だった
だから冬の貴婦人にふさわしいとなる、何かこの花は目立たない、でもいつまでも咲いていることに気づいたのだ、それで百歳まで生きた母にふさわしいと思ったのである。

自分の家族は複雑だった、だから母というとき何か普通の母とは自分にはならない
でも何か不思議なのはその方が自分には良かったのである。
母を嫌う子供がいるとき母のエゴがむきだしになるからである。
自分の母が一人だったらそうなった、でももう一人姉がいたのでそうはならなかったのである。だから母といっても普通の母ではないのである。

ただどうしても女性はその嫁ぎ先が家になるのではないか?嫁という字がそれを物語っている、実家を出たら他人の家が家になる、それでも「女は三界に家なし」とは

「三界」は、過去・現在・未来の三世のことをいい、女はそのどこにも安住の場はない、という意味です。

三界で三千世界とも云うこと、それは広い世界を意味し、この世の別名だと云うこと…。また、女にとって生まれ育った家は自分の家ではなく、嫁いだ処が家になる

これは時系列ではなく場所のことだろう。この広い世界に安住となる家がないということである。

だからまた嫁ぎ先の墓に入りたくないという人も多く夫が死んだら婚姻を解消して親戚とも縁を切り嫁ぎ先の墓には入らない、それが果して女性として幸福だったのだろうか?
今さら実家の墓に入るというのも時間がたったし別になっているのだから納得できない
そもそもまた実家で受け入れてくれるだろうか?
女三界に家なしとは嫁ぎ先にもなければもう実家にもないのではないか?

よくスピリチャアル関係では人が死んだらどうなっているかを言う、それはあくまでもイメージの世界でカルタシスのように作り出した世界なのである。
だからこれを信仰ととりちがえるのは良くない、それは勝手に死者をイメージしてなぐさめているのである。
死んで天国に行くとしても天国はそういう場所ではないからだ。

ただ人間は何か死者が何なのかいうとき死者とか語るというときそうなりやすい、自然の事物にも死者が投影されるのである。
だから葉山信仰では死んだ祖先は山に眠り春には田植えの時は里におりてくるというのもそうである。
死者が自然の中に生きているということで死者は死なずその土地に継続して生きる
つまりこの信仰は稲作かあって成り立つことでありそれは土地と密接に結びついて成り立っていたのである。土地から離れてはありえない信仰だったのである。
大和魂などというときも日本国という土着した魂のことである。
それは国土から離れてありえないのである。
一神教は砂漠から生まれたというときそうしたことはない、土地と離れてある信仰だからである。天に本当のホームがある信仰だからである。
地上では遊牧民のように家をもたないのである。

それはそれで死者を想うことでも人は年月がたつにうちに心境が変わってくるのだ。
だからプログというのはそうした環境の変化とか心境の変化を日々伝えることに向いている、一冊の本ではそういうことはない、あとからまとめて書くということになるからだ。日々変わることを伝えることに向いている、なぜなら環境でも心境でも日々変わっているからである。

死者でも二年目三年目とか5年目とか十年目とかで死者に対する思いは変わる
それで仏教では何回忌として供養したのである。
それで供養して金をとるというシステムを作ったのである。
ただそれも人間は死者を忘れられないということがあったからである。
先祖崇拝はそれで世界的に起きた最も古い信仰にもなる
でもその信仰とは本当の信仰は別なのである。

死者はどこにいるのか?それはやはり愛する人のもとにいるのではないか?
死者を想う人がいればその人の元にまだいる、そうなるのが自然だともなる
だから死者でも無縁仏とかなると誰も想う人がいないとなる
でも結局はみんな最後は無縁仏なのである。
子供でもやがては親が死んでも日常の生活に負われて忘れるからである。
ただそれでもなかなか忘れない人はいるから個々人によって違う
自分は特別な事情があって親を思っているのである。

ともかく死者も美化されやすい、生きていれば嫌な面があり一緒にもいたくないということが夫婦でも家族でもあった、死ぬとそうした嫌なことをなくなるから美化されやすいのである。
ただ死者がどこにいるかとなると墓にいるというよりは長く暮らした家の方にまだいるともなる、なぜなら家での暮らしが長いからである。
だから死んでも愛着をもっていることは確かなのである。

私は死んだ母親の遺影を飾っていますが、毎日話しかけている。
そうすると、そこに母親がいるのがわかる。

「その人がいる」と想い続ける限り、
 その人は「存在」し続けます。

これは単純だけど死者に対してどう対処するか簡潔に示している
死んでもその人を思っていればいるが想わなくなればいないのである。
それは死者に限らない、生きていてもその人を想わなければその人はすでに死んでいる、いないと同じなのである。
今生きていてもそうである。もしその人を憎むとしてもその人はいる
憎むということはその人にこだわっている、愛の反面なのである。
人は無関心になればその人は死んでいるいないのである。
生きていても死んでいるのである。

その人の逝きしもなおも面影の浮かびて見ゆる我が家にありて

どこに死者の面影が浮かんでくるかというとどうしても女性の場合は家になる
家が長く住んだ場所だからである。だから家がなくなることは死者も思いなくなるということがある。それが原発事故で故郷や家が消失したことの大きな精神的損害だったともなる

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