2017年06月17日

付加価値の時代は新たな文化の時代 (フラワーアレンジメントから考える)


付加価値の時代は新たな文化の時代

(フラワーアレンジメントから考える)


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「姉妹」

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「清楚」


何やっても実際は簡単ではない、フラワーアレンジメントもただいろいろな花を挿せばいいと思っていたがそうでもなかった
それを知ったのはスーパーで売っていたすでにフラワーアレンジメントされたものだったそれは400円とか安くても作品として作られていて花束として売っていたのである。
それは簡単なようでもフラワーアレンジメントされていたのである。
それでそれを写真に加工してプログに出した

この花は結局ただ花を売っていただけではない、フラワーアレンジメントをしたのを売っていた、ということは花屋はそうしてフラワーアレンジメントして売ることが商売となるとき花を売るにしてもフラワーアレンジメントできないと売れないともなる
そうして結婚式と葬式のときは作って売っていることは確かである。

今回スーパーで買ったものは安いからそういうものではないと思った
ただ花をアトランダムに束ねただけかと思っていたのである。
でも良く見ると単純なのだがすでにフラワーアレンジメントとして作られていたのである。
フラワーアレンジメントは花が高いので金持ちでないとできない、ただ安いものでも売っているからそれでたりならいい、花をいろいろ買ってフラワーアレンジメントすると高くつくのである。
そして壺もフラワーアレンジメントの要素として欠かせない役割がある
写真をとると壺もとるから壺の役割が大きくなるのだ
壺によて印象が違ってくるのである。

これからの商売はただ花だったら花を売るだけでは売れない、単純なものでもフラワーアレンジメントされたものなら買うともなる
それは単純でもただ花を売っているのではない創作品だったのである。
そこに価値が生まれていたとなる
花があってそこに付加価値としてのフラワーアレンジメントがあるから価値があった

付加価値というときもともと機能的価値が基本にある、土器でもそれは物を入れるものとして機能性を追求する、でも今度は装飾性を追求する、それが縄文土器となった
機能性に付加価値を加えたのである。それが芸術だともなる
何でも最初は機能性を追求する、茶の湯でもそうである。茶碗はただお茶を飲むものでしかなかった、それが茶の湯に発展したのである。
それが人間的なことであり文化なのである。

つまりこれだけ物があふれると物としての道具としての機能性より付加価値があるものが求められる、なぜなら機能的な面は今度は機械化され自動化されるからである。
でもそうしても駅でメカニカルなものとヒューマンなものとして分けて見た
いくら機械化しても自動化してもそこにヒューマンなものが必要になる
そこに価値が生まれる、機械化すれば自動化すれば余計にヒューマンなものが価値が出てくる、ロボットには愛などは生まれようがない、ただ高度な知性は備えるようになる
でもヒューマンなものは必ず求められる、それが付加価値になる

要するに今は物があふれているから物だけ売っても売れない、そこに何でも付加価値が必要になる、それは芸術的なものとなる場合もあるしその他人間的なものとしてあることの価値が高まる、もてなしというときとても機械だけでロボットにはできないのである。
機械にロボットにできても人間にしかできないことがありその価値が高まるのである。

情報化時代というときこれも付加価値なのである。情報といっても無限である。
それがインターネットでキーワードでひけるとき情報の付加価値が生まれる
本の弱点はキーワードで関連したものを引用できないことなのだ。
情報のデーターベース化が必要になる、それは確かに個人的にもできるようになってはいる、蔵書もデーターベース化できる、だから知的な環境として自宅に図書館をもっていることにもなる、図書館は何か調べるのにもめんどうなのである。だから図書館に行かなくなったのである。図書館も飼料でもデーターベース化すれば調べやすいのである。

もう一つは物語性というのも価値がでてくる、例えばヨーロッパの修道院で作られた菓子が売っているというときそこで修道院のシスターが丹念に作ったものとして歴史を偲ぶのである。そういうことは日本でもある。その菓子は中世とかなると貧しいから貴重なものだった。そういう物語性はむずかしい歴史書を読むとういのではなく誰でも感じることができる、庶民的なものにもあるからだ、確か北海道のトラピスト修道院の菓子とかあるがヨーロッパだと中世からはじまっているからもし旅をしてその菓子を味わうとき歴史を偲ぶことができる、その中世の街にあってこそその菓子を食べたとき本当の価値を知るのである。
ただ自分はヨーロッパを旅してもそういうことはできなかった、旅はなかなかそういうことを知ることがむずかしいのである。
その土地の表面的なものだけを見て終わっているのである。

最近駅に興味をもってお茶の水という駅があり地名の由来を知るとなるほどなと思った。もともとは寺があり江戸城で殿様がその寺の井戸の水で茶の湯のために使ったことがその地名の起こりである。
するとそこから江戸時代が偲ばれる、水道の水ではない、井戸の水を使っていた。
そして茶の湯をたしなんでいたのである。その時江戸時代の感覚だと悠長な時間があった騒々しい時代ではない、ゆったりとして茶の湯をたしなんでいたのである。
その感覚はあまりにも今とはかけはなれいるから余計にそう思う
お茶の水駅でもそこは騒々しいとても茶の湯をイメージする場では今はないからだ。
でもその物語を知るとき江戸時代はまるで違ったものとしてあったのである。

殿様の茶の湯たしなむ江戸の町静かなる時のかつてありしも

江戸にはそういう悠長な時間があったとなる、それを偲ぶ物語があり付加価値が生まれるのである。




posted by 老鶯 at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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